報告要旨

報告要旨 牛島万(2023年8月18日)

九州スペイン研究会 2023年後夏季研究大会要旨(2023年8月18日 久留米大学福岡サテライト)

プエルトリコ音楽レゲトンにみられるアフロ性の探究をめぐる問題

                           牛島 万

 

レゲトンは、ジャマイカのダンスホール、パナマのスパニッシュ・レゲエ、さらに米国のヒップ・ホップ、ラップの影響を受け、それにプエルトリコ独特の要因が絡んで1980年代後半から末にかけて生まれたと見られる。しかし、その起源は必ずしも定かではない。その理由は当初は反政府的なアンダーグランド文化であったからである。Nando BoomやEl GeneralのMuéveloの曲を聴いてもそれがレゲトンの原典とは受け取れないであろう。むしろレゲエかジャマイカのダンスホールに近いものを感じる。しかも歌手も奏者も黒人系である。必然とブラックネス(アフロ性、黒人性)の要素を視覚的に感じる。他方、別の見解としてほぼ同じころ、レゲトンのスパニッシュ・ラップをプエルトリコではじめたとされるVico CあるいはBig Boyがレゲトンを開花させたという考え方がある。彼らはレゲトンの父や生みの親という評価を受けている。しかしいわゆる一般に認識されているレゲトンとは違う要素を含んでいる。例えば、Vico Cはまさに米国の黒人ラップのスペイン語版であり、Big BoyのMaríaを聞けばレゲトンらしい萌芽的な要素は含まれているが、別の曲ではスローで音色や歌詞からロマンティカのジャンルに入ると思われる。

ではレゲトンの真の意味での起源はどこにあるのか。通常、レゲトンが国際的に爆発的な人気になったのはDaddy YankeeのLa Gasolinaであったと言われている。これがリリースされたのが2004年のことであるので、すでにかれこれ20年が経過している。Vico CあるいはBig Boy、またDaddy Yankeeがレゲトンの創始者とする見解のなかですべてに共通しているのは歌手が白人であることである。
さて、今回の発表の趣旨は、レゲトン音楽のなかにどれだけのブラックネスの要素が含まれているのかという点を検討することにあった。ここで考えられるブラックネスとは次の点である。音楽とその周辺にある文化性や歴史性までを分析の範疇にすると、①音楽的要素(リズムパターン、歌唱方法、楽器、歌詞内容、ダンスなど)、②レゲトンの発祥地であるとされるプエルトリコの歴史、文化性(カリブ海史における黒人およびアフロ系文化の存在、人の移動の歴史、カリブ海域内の人の移動や交流、米国黒人および黒人文化との接点など)が考えられる。以上の観点を取り上げただけでもブラックネスの音楽性や歴史文化性は明白である。かりにこれらのブラックネス的要素が容易に認められたとしても、ブラックネスの政治化にまで言及できるとは限らない。レゲトンが誕生したとされる1990年代のプエルトリコではcaserío(低所得者用公共団地)に代表される若年層の貧困と犯罪、mano duraに象徴される反社会的な若者に対する政府の強権政策(反ポルノ政策もこれに含まれる)が問題になっていた。レゲトンの大きな特徴の一つであるperreo(男女が互いの身体を接触させる舞踊形式)は、性的表現として受け取られることが多い。そのため、当初レゲトンはアンダーグランド化されていた。この意味でブラックネスは政治的な意味を含蓄しており、このアウトロー文化はまさに反政府的抵抗の表象であったとされるのが従来の学説である。そうなると、レゲトンの政治性は同様にブラックネスの要素を有していると考えられる。

加えて、レゲトンは時代の流れとともに変化が見られ、La Gasolinaは「古いレゲトン」として位置づけられている。では、新しいレゲトンとは何か。一つはレゲトンのポップス化である。つまり、レゲトンの大衆化である。これによって、レゲトンのブラックネスは弱まったと学説的に言われている。レゲトン歌手や奏者を見てみても、白人が主流で、その消費者もしかりである。ここに、今日レゲトンのブラックネスを認知することが難しい要因が見てとれる。
しかし感性や感覚という側面から見た場合、レゲトンの大衆化(ポップス化)に伴い、音楽が純粋に娯楽文化という感性や感覚でとらえる、とりわけ発信者(レゲトン歌手や演奏家)ではなく、受け手(消費者)に立って考えた場合、従来の学説と明らかに現状の乖離が見られることになる。そこで、文化人類学的な研究手法である聞き取り調査やアンケート調査に基づく消費側の感性や感覚に関する分析が必須であると考える所以である。すでに8月下旬、当大会の発表後すぐにプエルトリコへ渡航し、プエルトリコ大学の学生を中心にアンケート調査を実施した。その結果分析はまだ途中で、現時点で公表できる段階に来ていないが、筆者の仮説は概ね的を射ていることがわかった。少しだけここで言及しておくと、学説にあるブラックネスの音楽的要素を認識しつつも、プエルトリコ人として、また白人として、あるいはより自己の身体とそれが置かれている生活環境に密接である、希望や勇気、フラストレーションの解消などにベクトルがより向けられていることが調査結果から読み取れる。ちょうど今年5月末に京都外国語大学の私の学生200人を対象にプエルトリコ調査の予備調査を行った。そのときに筆者を落胆させたのは、純粋にレゲトンの歴史とその代表的な音楽を何曲か選曲して聞かせ、従来の学説であるブラックネスの話は一切せずに、歌詞内容を説明するにとどめた。それは学生たちに先入観を調査前から与えたくなかったからである。その結果、ブラックネスに関する回答をしたものはほぼ皆無であった。ちなみに偶然にもこれらの学生の中には明らかにその身体的特徴からして黒人系(あるいは日本人とのハーフ)と見られる学生が2,3人含まれていたことを追記しておきたい。他方、別の学生は、レゲトンのことはよくわからないが、自分は米国の黒人のあるラッパーが好きでその人が身にまとっているファッションを好んで身に着けていると私に語った。確かに彼が身にまとっているのは典型的なラッパーのスタイルであった。しかし、続けてその学生が私に教えてくれたことが驚きであった。自分は憧れのその人のファッションに関心があるだけで、彼のラッパーとしての音楽世界にはまったく興味がないと言い放ったことであった。

以上の経緯があって今回急遽、九州スペイン研究会が発表者を募集していたのが目にとまり、迷うことなく応募した。ぜひ筆者は以上の点をプエルトリコ調査直前のこの段階で、問題提起し、出席者の率直な反応を知りたかったのである。畠中昌教氏(久留米大学)とは事前の打ち合わせで旧友の椎名浩氏(熊本学園大学)とともにリモート上でお会いしていたものの、当日が初対面であったが、幸いにして、氏のご専門領域の人文地理学の立場から文化地理学を含めた離接する学問諸分野による総合的検討の必要性についてご教示をいただけたことは、不勉強な筆者には、目から鱗が落ちた気持ちになったほどである。改めて氏に感謝申し上げる次第である。

謝辞:本文で筆者が言及しているプエルトリコへの研究調査は、JSPS科研費JP21K18363の助成を受けたものである。

 

参考文献
牛島万「プエルトリコにおける文化的ヒスパニック性とブラックネスーペドレイラの『島嶼主義』からパレス・マトスのアンティル主義へ」『京都外国語大学ラテンアメリカ研究所の現在』(電子出版)https://www.kufs.ac.jp/ielak/publications.html
牛島万(コラム)「人種を乗り越えることはできるのか」住田育法・牛島万編『南北アメリカ研究の課題と展望―米国の普遍的価値観とマイノリティをめぐる論点』明石書店、
2023年。
金澤智『ヒップホップ・クロニエル』水声社、2020年。
栗田知宏『ブリティシュ・エイジアン音楽の社会学 交渉するエスニシティと文化実践』青土社、2021年。
I・ウォマック『アフロフューチャリズム』ファイムアート社、2022年。
S・ケルシュ(佐藤正之編訳)『音楽と脳科学―音楽の脳内過程の理解をめざして』北大路書房、2016年。
Godreau, Isar P., Scripts of Blackness, Race, Cultural Nationalism, and U.S. Colonialism in Puerto Rico, University of Illinois Press, 2015.
Giovannett, Jorge, “Música caribeña y narrativa histórica en Jamaica y Puerto Rico: reggae, rap, y reguetón,” en TEMAS, no. 52: 34-44, octubre-diciembre de 2007.
Negrón Torres, Bryan, “¿De dónde y cuándo aparece el reggaetón?: Un análisis al surgimiento del reggaetón en Puerto Rico a través del concepto de relación espacio—temporal de Mikhail Bakhtin,” Universidad de Puerto Rico, Recinto de Río Piedras, Facultad de Ciencia Sociales, Programa de Maestría en Sociología, 2018.
Rivera-Rideau, Petra R., Remixing Reggaetón, The Cultural Politics of Race in Puerto Rico, Duke University Press, 2015.
Rivera, Raquel Z., New York Ricans From the Hip Hop Zone, Macmillan, 2003.

 

 

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報告要旨 花方寿行(2023年8月17日)

九州スペイン研究会 2023年後夏季研究大会要旨(2023年8月17日 久留米大学福岡サテライト)
フンボルトを通して環境を読む―19 世紀イスパノアメリカ知識人の場合―

        花方寿行

 

 プロイセン貴族の家に生まれた博物学者、地理学者アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander von Humbolt, 1769-1859)は、パリで知り合ったフランス人博物学者エメ・ボンプランと共にイスパノアメリカ探検を計画。1799年カナリアス諸島探検を経て現ベネズエラに赴き、カラカスを拠点に周辺やオリノコ河流域を探検する。続いて再びキューバを経て現コロンビア、現エクアドル、ペルーを探検、メキシコに戻り、1804年にヨーロッパに帰還した。この探検に基づいて刊行された『新大陸赤道地方への旅 Le Voyage aux Régions équinoxiales du Nouveau Continent』(ボンプランとの共著、1807)は同時代的に広く読まれ、自然地理学の基礎を築いたとされる。

 この長期にわたる探検旅行とその前後において、フンボルトはシモン・ボリーバルやカルロス・デ・モントゥファルといった、後にスペインからの独立戦争で重要な働きをする人物と親交を持つ。アンドレス・ベリョ (Andrés Bello, 1781-1865)のように直接この時知り合った人物もいるが、19世紀初頭のイスパノアメリカ文学との関係で重要なのは、何よりも著作に表れたその自然の捉え方と表現である。
 フンボルトはまず地質学的に「地形」に注目し、そこに気象条件などの要因が加わりどのような植生が生ずるか、さらにどのような動物類がそこに生息するかで全く異なる「自然環境」となるかを調査した。そしてそうした「自然の様相」を文章と挿画の両方を用い絵画的に描写、一幅の「絵」に地形・植生・生物相を凝縮してタブローとして提示した。こうしたフンボルトの自然表現は、視覚による(無時間的な)真実の表現としては18世紀の古典主義視覚観に属する一方、光線の変化や動植物の動きが(時間的に)表現される点で19世紀のロマン主義視覚観に移行しつつあるものだった。

 フンボルトのこのような描写は、イスパノアメリカ独特の自然環境を新生独立諸国のナショナル・アイデンティティのシンボルとして称揚しようとする作家たちによって、早速利用された。ベネズエラ出身で後半生をチリで過ごすアンドレス・ベリョは、先に述べたようにフンボルトと直接面識もあったが、ロンドンへの亡命中雑誌El Censor AmericanoやEl Repertorio Americanoに『新大陸赤道地方への旅』の紹介や部分抄訳を発表している。また代表作である長編詩「熱帯地方の農業に捧ぐ A la agricultura de la zona tórrida」(1826)では、出身地であるベネズエラのカリブ海沿岸部を念頭に、現地の植物(農産物)を学術的な注をつけながら絵画的に紹介。ロマン主義的な動きの表現は自然描写では強くないが、フンボルトの行った自然の絵画的表現に最も忠実なものとなっている。

 キューバ出身でイスパノアメリカ・ロマン主義の先駆者とみなされるホセ・マリーア・エレディア(José María Heredia, 1803-1839)の、メキシコを舞台とした代表作「チョルーラ神殿にて En el teocalí de Cholula」(1820)冒頭には、フンボルトの『山脈の景観』におけるチョルーラ神殿訪問の記述の他、「草原と沙漠について」や「植物観相学試論」での自然描写の影響が見られる。また日没に伴う光の変化の描写には、フンボルトのロマン主義絵画的な側面が影響している。

 アルゼンチン出身でイスパノアメリカ最初のロマン主義者とされるエステバン・エチェベリーア (Esteban Echeverría, 1805-1851)の代表長編詩『虜囚 La cautiva』(1837)冒頭のパンパ描写には、フンボルト「草原と沙漠について」の影響が指摘されている。ただしここには「チョルーラ神殿にて」の影響が明確にあるので、直接フンボルトに由来するかは不明である。それに対して同じアルゼンチン出身のドミンゴ・F・サルミエント(Domingo Faustino Sarmiento, 1811-1888)は代表作『ファクンド Facundo』(1845)において、「草原と沙漠について」における同じ堆積平地上の植生の違いによって沙漠・草原・森林という異なる環境が生じるという説明を利用して、アルゼンチン全土をパンパに、アルゼンチン人の気質をガウチョのものに還元する独自の国民性論を展開し。フンボルトも示唆する環境決定論に基づきアルゼンチンの国民性を規定し、ガウチョを国民のシンボルとする後のアルゼンチン国民論に大きな影響を与えることになる。

 19世紀前半イスパノアメリカにおいてフンボルトは中南米の自然環境のみならず歴史・社会研究においても権威とされており、特にスペインからの独立正当化にその文章が広く援用された。ただし環境決定論的に直接社会論と結びつけたのはサルミエントくらいで、文学作品においては自然環境を絵画的に表現するロマン主義的な描写が作家たちに強い影響を与えたと言える。

 

参考文献
Cuesta Domingo, Mariano. & Rebok, Sandra. (coordinadores) Alexander von Humboldt: Estancia en España y viaje americano. Madrid: Real Sociedad Geográfica, Consejo Superior de Investigaciones Científicas, 2008.
花方寿行『我らが大地――19世紀イスパノアメリカ文学におけるナショナル・アイデン ティティのシンボルとしての自然描写』晃洋書房, 2018.
フンボルト、アレクサンダー・フォン『フンボルト 自然の諸相――熱帯自然の絵画的記 述』木村直司編訳, ちくま学芸文庫, 2012.
Pratt, Mary Louis. Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation. London, New York: Routledge, 1992.
Zea, Leopoldo & Magallón, Mario. (compiladores) El mundo que encontró Humboldt. México D. F.: Instituto Panamericano de Geografía e Historia, Fondo de Cultura Económica, 1999.
   

 

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報告要旨 富田広樹(2022年8月20日)

2022年度夏季研究大会報告要旨(2022年8月20日 大村市コミュニティセンター)
文学的トポスとしてのヨハン・モリッツ・ルゲンダス
富田 広樹 

 1802年3月29日、ヨハン・モリッツ・ルゲンダスは帝国自由都市アウクスブルクに誕生した。元をたどれば16世紀なかばに中央ヨーロッパにやって来たカタルーニャからの移民である一族からは、画家、版画家が輩出した。
 今日、ヨハン・モリッツ・ルゲンダスの名は彼が残した膨大な新大陸にかんする絵画作品によって記憶されている。ブラジル、メキシコ、チリ、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ウルグアイに滞在し制作した700を超える油彩、300を越える水彩、5000を越える素描は、同時代のアメリカ大陸の自然誌、生活文化を知る上で貴重な資料となっている。現代にいたるまで、ヨーロッパからアメリカ大陸を「どう見るか」という視線の礎を築いたのはルゲンダスにほかならない。
 ルゲンダスについての詳細な伝記をものしたエフレン・オルティス・ドミンゲスは、つぎのように述べている。

  二世紀が過ぎてなお、ルゲンダスはわたしたちに景色の見方を教えた巨匠であり続け、世界にわたしたちのイメージを供する名高い画家
 であり続け、歴史においては、わたしたちの祖先の日常生活を記録した年代記作家であり続けている。
 (Ortiz Domínguez, https://a.co/5VU2tM4

 わたしたちのアメリカ大陸受容において、ルゲンダスの絵画作品が果たした役割は小さくない。
 そのルゲンダスをめぐって、2000年以降、彼を主人公にした小説が相次いであらわれている。アルゼンチンのCésar Aira (Argentina, 1949-)によるUn episodio en la vida del pintor viajero (2000)、チリのCarlos Franz (Chile, 1959-)によるSi te vieras con mis ojos (2015にバルガス・ジョサ賞を受賞)、そしておなじくチリ出身のPatricia Cerda (Chile, 1961-)によるRugendas (2016)である。
 異邦の画家が、なぜこれほどまでにラテンアメリカの作家を引きつけることとなったのか。アメリカ大陸の受容においてルゲンダスのヴィジュアル・イメージが同時代と後代に与えた影響が大きいことはすでに述べたとおりだが、複数の作家が競うようにして彼を文学作品に取り上げたことには、またべつの要因が求められよう。
 ルゲンダスについては、20世紀なかばより研究があらわれているが、1990年代に実証的な研究と複数の展覧会が開催されたことによって再評価が進んだ。国・地域で受容と評価に差異が見られ、ブラジルでは絵画作品へのアプローチが多いのにたいして、それ以外の地域では人間ルゲンダスにフォーカスをあてていることは興味深い。

 ルゲンダスはアメリカ大陸に二度渡っている。一度目は1822年から24年にかけて、ナッサウ・ウジンゲン候国出身のロシア外交官ラングスドルフのブラジルへの調査遠征に参加したが、後に離脱する。この時に描いた素描と水彩画がヨーロッパに帰ってからルゲンダスの名を高からしめた。博物学的な関心とエキゾティシズムが旧大陸の上流階級人士の注目を集めた。これがきっかけとなってフンボルトの知遇を得た。また、イタリアに渡って油彩の技術を習得した。
 写真のない時代に、ルゲンダスの描く細密な自然風景は「科学的な」絵として重用された。大博物学者に鼓舞されてルゲンダスは1831年、ふたたびアメリカ大陸に渡る。その足取りは以下の通り。

1831-34 メキシコ:政争に巻き込まれ収監、死刑寸前になる。後、国外追放
1835-42 チリ:カルメン・アリアガダと出逢う
1842-45 ペルー
以後、アルゼンチン、ウルグアイを経てブラジル再訪

 この二度目の新大陸行きでルゲンダスの画風は変化を見せる。アナクロニズムをおそれずにいうならば、「写真のような」絵を描くことで博物学に仕える画家であった彼は、しだいに雄大な自然を前にして自身を捉えた印象を描く画家へと変容していく。ルゲンダスが「ロマン主義」の画家になっていったということもできよう。二度目のアメリカ滞在を経て、その作風は17、18世紀に流行を見たピクチャレスク絵画や彼が敬愛したターナーのそれに近づいていく。油彩を学んだことも大きいが、芸術家としての成長がもたらした変化といえよう。

 これと平行して、ルゲンダスを文学的トポスにする変化があらわれる。それは、8年にもおよんだチリ滞在においてルゲンダスが出逢い、以後16年にわたって手紙をやりとりすることになった女性、カルメン・アリアガダによるところが大きい。
 農園主であり、軍人・政治家の父のもとに生まれたカルメンは1825年、ドイツ人の軍人エドゥアルド・グティケと結婚した。1835年、農園を訪ねたルゲンダスと出逢い、以後文通を続けた。
 交わされた書簡のうち、カルメンの書いたものが20世紀なかば、第二次世界大戦の終わったドイツ・アウクスブルクで発見される。文学におけるロマン主義はジャン・ジャック・ルソー『新エロイーズ』(1761年)、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(1774年)などに代表される書簡体小説をひとつの主戦場として花開いた。そして、カルメン・アリアガダは、ルゲンダスと交わした愛の手紙によってチリ最初の女性作家と見なされている(A companion to Latin American Literature and Cultureにも収載)。
 ルゲンダスからカルメンに宛てられた手紙は散逸しており、これら書簡の受け取り手としてのルゲンダスは空白となる。ここに、多年にわたる文通によって愛を交わしたロマン主義的なルゲンダス像れぞれの作品で描いたルゲンダスは、このイメージに基づいている。いっぽう、アルゼンチンのアイラは旅の途中で雷撃に見舞われ、瀕死の重傷を負ってもなお絵を描くことに強い執念を見せた画家としてのルゲンダスを取り上げている。
 このようにして、画業そのものではなく、人間ルゲンダスをロマン主義的な「登場人物」へと変化させる運動が起こったのである。

 ヨーロッパとアメリカ大陸の出逢い、その不幸な出逢いがもたらしたものについては同時代人としてのラス・カサスが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』に記録し、また現代においてはスティーブン・グリーンブラットやツヴェタン・トドロフといった論者が詳細な考察を加えている。ヨーロッパは驚嘆し、また法慣習に則った名付け行為を通じて他者の文化を占有し、また破壊してきた。博物学は、その片棒を担いできたといっても過言ではあるまい。
 しかし、博物学に仕える精緻な自然画を描くことからロマン主義的な表現者へと変化していったルゲンダスは、ヨーロッパとアメリカ、あるいは博物学に見られる理性と恋愛の情熱というふたつの世界の緊張関係を横断することとなった。それこそが、文学的トポスとしての彼が持つ引力の中心であろう。

参考文献
Aira, César. Un episodio en la vida del pintor viajero. Rosario : Beatriz Viterbo, 2000.
Castro-Klaren, Sara (Ed.). A companion to Latin American Literature and Culture. Oxford: Wiley-Blackwell, 2013.
Cerda, Patricia. Rugendas. Barcelona: Edicones B, 2016.
Franz, Carlos. Si te vieras con mis ojos. Madrid: Alfaguara, 2015.
Ortiz Domínguez, Efren. Johann Moritz Rugendas: memorias de un artista apasionado. Bógota: Luna Libros, 2013.
グリーンブラット、スティーブン『驚異と占有』荒木正純訳、みすず書房、1994.
トドロフ、ツヴェタン『他者の記号学』及川ほか訳、法政大学出版会、2014.
ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳、岩波文庫、2013.

 

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報告要旨 押尾高志(2022年8月20日)

2022年度夏季研究大会要旨(2022年8月20日 大村市コミュニティセンター)
ムスリムから見た近世スペイン :アラウィー朝外交使節の記録から

押尾高志

 17世紀のモロッコでは、王位継承争いの勃発と内戦で衰退したサアド朝(1510〜1659年)にかわってアラウィー朝(1631年〜)が同地域の支配王朝として台頭する。アラウィー朝の支配はモロッコ全土に及んだとはいえ、地中海・大西洋沿岸部に位置する主要な港湾都市は、依然としてスペイン・ポルトガル両国の支配下にあった。1672年に即位したスルタン、ムーレイ・イスマーイールMawlāy Ismāʿīl ibn Sharīfは、国内行政の整備および、黒人奴隷軍の組織など軍事力の強化を行い、オスマン帝国領アルジェリアへの介入や、スペイン・ポルトガル両国の支配にあった地中海・大西洋沿岸部の港市に対する再征服を行った。大西洋沿岸に位置するアラーイシュ(ララーチェ)もその一つで、同都市はムーレイ・イスマーイールによって1689年に奪回された。アラーイシュ奪回の際に生じたスペイン側捕虜の扱いと解放について、スペイン・モロッコの両国は外交交渉を持つことになり、1690年にはアラウィー朝からハプスブルク朝スペインへ外交使節が派遣された。


 本報告は、上記の外交使節をつとめたガッサーニーMuḥammad ibn ‘Abd al-Wahhāb al-Wazīr al-Ghassānī al-Andalusī al-Fāsī (d. 1707)によって書かれたスペイン滞在報告書『捕虜解放のための大臣の旅Riḥlat al-Wazīr fī Iftikāk al-Asīr(以下、捕虜解放の旅)』を中心に、アンダルス(イスラーム支配下のイベリア半島)に出自を持つマグリブのムスリムが、どのように17世紀末期のカトリック・スペイン社会を観察し、その現実を通してアンダルスの過去をいかに想起したのかの一端を明らかにすることを目的とした。


 ガッサーニーの使節は、アラウィー朝とハプスブルク朝スペインの間の重要な外交案件であった戦争捕虜の解放という問題を解決するために派遣された。彼の『捕虜解放の旅』は、ムスリムの視点から17世紀末のスペイン社会がどのように認識されたのかを探る重要な史料であり、また自らもアンダルス系ムスリムであるガッサーニーがアンダルスの過去をどのように記憶しているのかを垣間見ることができる史料でもある。
 『捕虜解放の旅』では、その題名とは裏腹に、捕虜解放交渉に関しては短く簡潔に交渉の最終段階(カルロス2世との謁見の場面)のみが記されている。一方で、上陸港であるカディスからマドリードまでの道中で一行が立ち寄ったスペインの村々の情景や社会制度、スペインの歴代君主たちとその事跡、宗教行事などガッサーニー自身が見聞きした事柄についての記述は豊富かつ詳細である。加えて、マドリードに集まったヨーロッパ各国の大使や、彼らからもたらされた情報をもとに、最新のヨーロッパ情勢を可能な限り正確に伝えようとする著者の姿勢も見て取ることができる。


 ガッサーニーにとって、この旅の公的な目的は、スルタンの臣下として捕虜解放交渉を行うことにあったが、その道中は自然と自らの父祖であるアンダルス・ムスリムが暮らした土地を訪ね歩くものとなった。それゆえに、アンダルスにおけるムスリムの歴史や、モリスコたち(16世紀前半にカトリック信仰に改宗した元ムスリム)の子孫についての描写には、現在マグリブに居住しているその子孫たちとの関係をうかがわせる形になっている。たとえば、実際は16世紀前半(1502年〜1526年)にスペイン全土でムスリムに対するカトリック信仰への強制改宗が行われているにもかかわらず、16世紀後半のアルプハーラス反乱失敗後に強制改宗が行われ、17世紀初頭の全体追放の際にはカトリック信仰に改宗した者はスペインに残留したと明らかに事実と異なる内容が述べられている。これはガッサーニー自身を含め、モロッコへ移住してきたアンダルス系ムスリムやモリスコたちが、キリスト教への改宗を経験していない真正なムスリムであることを示唆し、その名誉を守るための記述であると推測される。


 また、『捕虜解放の旅』は、ガッサーニーとその一行がマドリードからモロッコへ向けて出立したのち、帰路でトレドに立ち寄ったという記述で、17世紀末スペインに関する記述は終わる。その後は、8世紀初頭のイスラーム勢力によるアンダルス征服について、いわば過去の「イスラームの栄光の歴史」が語られる。同箇所は、ヨーロッパの研究者からは、既知の歴史的事実の羅列であるとして、従来ほとんど等閑視されてきた。このように、アンダルス征服の歴史についての記述を挿入するというスタイルは、ガッサーニー独自の文体ではなく、17世紀前半にモリスコの著述家がチュニスで記した著作でも確認される。マグリブに渡ったアンダルス系ムスリム、そしてモリスコたちにとって、失われた故地であるアンダルスの歴史を、自らの現在と照らし合わせて、どのように解釈するのかは、自らのイスラーム的正統性を補強するための共通のテーマであったのだろう。これらのアンダルス表象の比較検討は今後の課題としたい。

 

 

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報告要旨 池上大祐(2021年8月20日)

2021年度夏季研究大会報告要旨(2021年8月20日 オンライン開催)                  
グアム現代史研究の現状と課題―アメリカ史研究と世界史教育の観点から―
                 池上 大祐

 

はじめに
本報告の目的は、(1)グアム現代史研究(特に日本国内で)がどこまで積み重ねられているのかを整理すること、(2)グアム現代史研究の成果を世界史教育にどう生かしうるのかを、実践例をもとに紹介すること、(3)グアム現代史研究の今後の課題と展開可能性を、スペイン研究者と共有することである。


(1)については、主に①第二次世界大戦(とその記憶)をめぐる研究、②米軍基地/軍政統治をめぐる諸問題、③「グアム基本法」(1950)成立をめぐる研究、④チャモロ・ナショナリズムに関する研究についてその特徴や論点を整理した。管見の限りだが、「アメリカ史」という枠組みからグアムを対象とした研究蓄積は十分ではなく、グアム現代史研究の担い手は、主にグアム在住(出身)の研究者と数名の日本の研究者が中心となっている。それはまさに、米領グアムが「未編入領土」という「州」とも「独立」とも異なる独特の政治的地位に置かれ、「アメリカであってアメリカではない」両義的な境界地域に置かれてきたことも影響しているといえよう。それもあいまってグアムは、アメリカ史の観点からはアメリカ社会史(内政史)からも、アメリカ外交史からも等閑視されがちであった。ただそれでも、支配と被支配の構造をトータルに分析しようとする帝国史研究の枠組みや、戦争記憶研究の視座も蓄積されていることから、広く「現代史研究」という枠組みのなかで関心が高まってきているさなかにあると位置づけることができる。報告者もその潮流に乗せてもらうなかで、米海軍によるグア軍政統治の実態、1960年代の南太平洋戦没者慰霊公苑建設をめぐる戦争記憶の相克、1980年代のグアム太平洋戦争歴史公園の整備と環境調査との関係性について研究を進めていることを紹介した。


(2)については、①グアムのおける学校教育用の教則本の紹介、②京都の公立高校のグアム修学旅行事前学習(2014年)、③報告者が担当する琉球大学の授業実践について紹介するなかで、「グアム」という個別事例の歴史を掘り起こすことが、植民地支配の問題、戦争の実態、基地問題といったグローバルな諸問題への接続を可能とすることを強調した。近年、日本における高等学校の世界史教育刷新が試みられ、歴史総合や世界史探究といった新科目が2022年度から順次設置されることになる。知識の習得から思考力の育成に軸足を置くようになる世界史教育の方向性に、グアム現代史研究が貢献しうることは、島=ローカルな視座から世界史を見通すことの意味を問い直すことにあろう。質疑応答でも、千葉県におけるグローカルな記憶をめぐる事例をご紹介いただき、地域から世界史をまなざすことの意義を共有することができた。


(3)については、司会者からいただいたご指摘のように、今回報告者の力量不足で「移民」(人の移動)をめぐる研究をフォローできなかったことから、その研究史の整理も含めて帝国史研究、植民地責任論、戦争記憶研究(近年では公共史という概念も登場している)などの観点から、他のマリアナ諸島も視野にいれたグアム現代史研究のより一層充実化させる必要があると論じた。またスペイン統治時代のグアムをも射程にいれた「グアム史」の通史的理解を深めることで、いわゆるローカルへの軸足を重視する「グローカルヒストリー」を鍛え上げていく必要性を強調した。その際には、報告者自身の語学の壁を超える必要もあると同時に、今回九州スペイン研究会に参加させていただいたご縁から、今後も、それこそ「九州/沖縄」という生活圏を土台とした研究交流を継続していくなかで、スペイン植民地史研究との架橋―将来的にはこの機会で得た交流の機会をもとに、日本語で読むことができる「グアム通史」(翻訳も含めて)を発表すること―を目指したいという意思を表明した。

 

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報告要旨 富田広樹(2021年8月20日)

2021年度夏季研究大会報告要旨( 2021 年 8 月 20 日 オンライン開催))

エレナ・ポニアトウスカ『レオノーラ』のインターテクスチュアルな戯れ
                                 富田 広樹

 

 2013年、スペイン語圏でおおきな功績を残した文学者を顕彰するセルバンテス賞に輝いたメキシコの作家エレナ・ポニアトウスカは、2011年にイギリス出身の画家、作家であるレオノーラ・キャリントンを題材とした小説『レオノーラ』を出版している(同年のビブリオテカ・ブレベ賞に選出)。本発表では、この作品のテクストが、題材となったレオノーラ・キャリントンの筆になるテクストとのあいだに持っている関係性に注目することで、ともすれば自明のものと目されがちなオーサーシップの微妙な揺らぎを考察した。

 ポニアトウスカとキャリントンは、メキシコを代表する芸術家、文化人ではあるが、いずれもその出自はメキシコにない。キャリントンは前述の通りイギリスの裕福な家庭に生まれ、フランス出身のポニアトウスカもまたポーランドのポニャトフスキ家やメキシコのアモル家につらなる上流階級の出身である。両者がともにヨーロッパに生を受け、複数の外国語に精通し、生まれと育ちから来る洗練された教養の持ち主であったことは、看過できない共通点といえよう。そして、このふたりの女性は50年代より親交をむすんだ。『レオノーラ』出版の2011年にキャリントンは物故するが、小説の出版は彼女の死に先立ってのことであった。

 ポニアトウスカ自身、作品によせた謝辞でキャリントンの複数の作品に言及し、作品を書きあげるにあたって、それらに含まれる自伝的要素を抽出し、小説に盛り込んだことをインタビュで口にしている。しかし、それは単純な「引用」のようなかたちではなく、キャリントンの実人生とのパラレルな関係を有する断片を再構築し、それによってイギリス人の生涯をより印象深いものに作り上げるための、精緻な語り直し(あるいは語り返し)となっている。本発表では、こうした特徴が顕著にあらわれているキャリントンの「ちいさなフランシス」(Little Francis)を例に取りながら、二人の作家のテクストの関係を明示した。あわせて、「ちいさなフランシス」以外のキャリントンの書き物とも同様の関係が成り立っていることを指摘した。
 質疑応答にあって、キャリントンのテクストからポニアトウスカのそれへの影響はわかったが、逆のケースはないのか、という質問をいただいた。答えるのに十分な知識を持ちあわせなかったため、満足のいく回答ができなかったが、両者の交流が数十年にもわたっていたことを考えれば、そのような可能性はじゅうぶんにありえるだろう。キャリントンが熱心に筆を執った時期はながくはないが、たとえば、ポニアトウスカのテクストとキャリントンの絵画作品というように、異なる表現手法において、そうしたものがあらわれることもあると思われる(ポニアトウスカの作品の挿画をキャリントンが手がけたことはある)。今後の課題としたい。

 なお、本発表の一部は2021年3月に開催されたオンライン講演会『文学帝国メキシコへの招待—–現代小説の名作を味わう』(主催 メキシコ大使館)での発言ならびに、拙稿「オーサーシップの漂流」(『北九州市立大学文学部紀要』第91号所収)と内容に重複する部分があることを申し添えておく。

 

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報告要旨 椎名浩(2021年8月20日)

2021年度夏季研究大会報告要旨(2021年8月20日 オンライン開催)

「長崎寄進状(1580年)」再考―スペイン語史料として

椎名 浩


はじめに
 長崎が南蛮貿易港として歩み始めて約10年を経た1580年、領主大村純忠・喜前(よしあき)父子によって長崎と茂木がイエズス会に寄進された出来事は、以前より様々な立場・角度から注目され、かつ議論を呼んできた。この際大村氏により作られた寄進状は、現在そのスペイン語訳のみが現存している(以下本報告では、特に断らない限りこのスペイン語文を「長崎寄進状」あるいは「寄進状」とよぶ)。
 スペイン史ないし日西関係史の立場から見れば、この長崎寄進状および同時期に日本巡察を行ったA.ヴァリニャーノの『日本諸事要録』は、ポルトガル語が多数を占める、この時期の日本記述の中でのスペイン語による例として興味深い。加えて、中・近世スペインの都市社会および都市・王権関係に関心を抱いてきた報告者は、これらのスペイン語史料に、当時の日本の地域社会、住民の空間的編成のあり方についての記事が見いだせることについても、興味をひかれるものがある。

I. 拙稿、2021年での考察
 1.拙稿「スペイン語史料を通じて見た開港初期長崎の社会をめぐる一考察―『日本諸事要録』と長崎寄進状を中心に」(『大村史談』72号、2021年3月刊。以下「拙稿」)では、上のような関心にしたがい、①寄進状をはじめ当時の長崎についてのヨーロッパ人(具体的にはスペイン世界の人)による記述を読むにあたっては、繫栄する南蛮貿易港について当然あるべき都市的機能への言及―いわばメタ概念としての「都市」長崎―と、住民の空間的編成の単位としての形容―「市ciudad」「町villa」「村pueblo, lugar, aldea」等―を区別すべきこと、②同様の観点から、従来研究(日本語訳)では長崎、茂木などの「地点」を指すものとフラットに解釈(訳)されてきた寄進状文中の’lugar(es)’についても、空間(集落あるいは共同体)のあり方を反映した語として再考すべきではないかと問題提起し、かつ寄進状その他の史料を検討した。

 2.その結果、①開港後約10年を経た長崎は、メタ的には「都市」と呼ぶにふさわしい特徴と機能を備えつつあったが、②法的・制度的には、いまだ領主支配の強い集落の域を出ていなかった。③これを人的側面から見れば、この時点で長崎住民の中に、地域社会に影響力を及ぼす特別な存在―いわば「都市寡頭層」―は形成されず、住民の階層分化はあまり進んでいなかったと解釈できる。④長崎住民にとって、イエズス会への寄進は第一義的には、自分たちの頭上での領主支配の移動であった。とはいえ、日本国外に本山を置く教団の支配下に入ったことは、こうした領主支配の構造にも影響を与え、長崎住民の「自治」にとっても重要な契機だったのではないか。との暫定的結論を得た。

II. 本報告での補論的考察 
1.Covarrubias, 1611の有効性
 拙稿では、近世スペイン語世界の(ここででは、空間や身分、官職等についての)価値観を知る補助資料として、18世紀に編纂されたDiccionario de Autoridades(以下DA)を参照したが、本報告では、DAより1世紀さかのぼり、したがって本報告で検討対象としている時代により近い1611年、セバスティアン・デ・コバルビアスが著した辞書( Tesoro de la lengua castellana o española )についても、該当語句の記述を検討した。それらは概ねDAより簡潔ではあるものの、基本的な内容は大きな違いはないとみられる。というより、DAの編者にとって、すでに古典の誉れ高いこの辞書は重要な典拠(’autoridad’)の一つだったのであり、彼らはその記述内容を尊重・踏襲しつつ、他の典拠や科学革命・啓蒙主義の成果も加えてより充実した記述とした、と見るべきだろう。またコバルビアスは全体として、語義説明に劣らず語源の考察を重視しており、とくにtierraなど、基本的で語義も自明と思える語句については、もっぱら語源の考察・解説に紙面を割く傾向がみられる。近世初期のスペイン語世界における社会概念をうかがう資料として、コバルビアスも有効ではあるが、DAを併用してその情報の不備不足を補うことで、その精度・有効性はより増すように思われる。

2.寄進状独訳、英訳の検討
 拙稿では準備不足から捨象した(というより、おのが浅学と非力から「逃げた」!)、J・F・シュッテによる寄進状の独訳(ヴァリニャーノの布教方針についての1951年の著作に掲載)は、早くも1954年の牧健二論文においていち早く参照され(同論文に掲載の寄進状和訳はこの独訳からの重訳)、わが国の寄進状研究にとって、いわば原点ともいうべき重要な存在である。さて拙稿で再検討した寄進状文中の語句のうち、lugar(es)は、この独訳ではOrt(e)の語があてられている。この単語はスペイン語のlugar同様、第一義的な意味(通常、辞書の①に掲載される)は「場所・地点」となり、牧訳他、諸邦訳にも影響を与えた可能性が大きい。だが、やや詳細な辞書をひもとくと、この語には「村落・町村」の意味も見いだされ、そうすると、その意味の「幅」はlugarがもつものに近いものがある。あるいは、シュッテはlugarにOrtの語をあてるにあたり、そうした「幅」あるいは「含み」を念頭に置いたのではないか(他の箇所ではlugaresをGebietと訳している)。また従来邦訳で同様に「土地」と訳されるtierrasにはLändereienの語をあてており、ここにも「領域、管区」の「含み」を持たせるようにも思える。
 1980年の寄進状英訳は、上記シュッテの著作の英訳に掲載されたものであり、そうした流れから言えば独訳からの重訳と言える。lugarなりOrtに第一義的に対応する英単語はplaceであるが、この英訳では寄進状文中のlugar(es)はplace(s)と“直訳”されず、localities、districtの語があてられている。ここでも、スペイン語・ドイツ語の持つ意味の「幅」「含み」が念頭におかれた可能性がある。
 以上、寄進状の独訳・英訳の検討により得た知見は、lugarの語を例にとれば、さきに拙稿でスペイン語文の再検討を通じて得られた「暫定的な結論」を補強するものであった。ただ、研究会当日の質疑応答にて、長崎寄進状と同時代の、中世~戦国期日本の寄進文書では、村落を含む空間とその住民・支配権が寄進の対象となる場合でも「所」「地」といった表現が用いられるのが通例であり、従来邦訳はそのことを念頭に置いたのではないか、とのご指摘を受けた。この双方の知見を統合しようと思えば、ある意味認識論・言語表象論の深みにはまる恐れもあり、率直に言って能力の限界も感じるが、今後の課題としたい。

3.誰が、どのように書いたのか?
 当時のイエズス会士の中でも随一のスペイン語の書き手であり、長崎寄進についての協議を主導したヴァリニャーノが、寄進状の書き手であることは間違いないが、彼に日本語学習歴はなく、(存在が推定される)和文寄進状と、現存するスペイン文の寄進状を、彼による「翻訳」で直結するのは無理があり、ロマンス語・日本語双方に通じた媒介者の存在が考えられる(状況から言うと、ヴァリニャーノの通訳を務めていたフロイスか)。
 その際、中間の訳が作成された(スペイン語文はそこからの「重訳」)と考えるより、大村氏から出されたと想定されている和文寄進状にほぼ準じる「素案」を協議する中で、言語能力を異にする複数の当事者(日本語ネイティブ、日本語に通暁したロマンス語ネイティブ、ヴァリニャーノ)の間のオーラルなやり取りから、直接スペイン語版寄進状が「作成された」と考えてはどうだろうか。
 以上はあくまで推測ではあるが、12世紀トレドでの翻訳活動は、古典古代文献のアラビア語訳をモサラベやユダヤ人がロマンス語で読み上げ、それをラテン語で書き留める形で進められ、江戸時代のオランダ風説書は、通詞とオランダ船員との共通言語(17世紀末まではポルトガル語、のちオランダ語)によるオーラルなやり取りが日本語による文字情報になされるなど、こうしたありかたは、前近代の多言語コミュニケーションの場で多々見受けられた現象ではある。

4.日本記述における空間形容の変遷―中・長期的展望
 『日本諸事要録』において、日本全体で'ciudad'と形容される地点は6か所見られるが(博多・府内・山口・堺・京・安土)、信長の退場とともに(彼は『要録』脱稿の時点で、すでに本能寺の変に倒れていた)の安土が落ち、かわって秀吉の台頭とともに大坂が、その後17世紀前半にかけて、徳川家の拠点江戸・駿府、伊達政宗の仙台が加わる(代表的にはビベロやビスカイノの記述)。
 下って17世紀後半、たとえばD.オルティス・デ・スニガの『セビーリャ年代記』では、同市出身で慶長遣欧使節の立役者L.ソテロが1624年大村で殉教した記事において、大村を「日本の都市’ciudad de Japón」と形容している。17世紀半ば以降の禁教・鎖国(1624年スペイン製来航禁止)の流れの中で、日本布教の展望はもとより日本の現地を訪れる機会もなくなり、半面日本全体の空間秩序を考察する必要からも解放されて、個々の日本記述の場面の中心的地点を、任意に’ciudad’と形容するようになったとも考えられる。こうした、地点形容のあり方の中・長期的な変化を考えるには、一定量の材料を検討する必要があり、その中で、たとえば今回取り上げた長崎についての形容がどう変化したかの定点観測も含め、今後の検討課題としたい。

 

 

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報告要旨 大場はるか(2021年8月20日)

2021年度夏季研究大会報告要旨(2021年8月20日 オンライン開催)
17世紀モラヴィアにおける大友宗麟の描写

                     大場はるか

 本報告は、17世紀以降欧州内陸部で広まった日本人描写の中でも大友宗麟の描写に焦点をあてたものである。 いわゆる「 キリシタンの時代 」に関しては、イベリア半島を中心とした欧州沿岸部と日本との直接的な 関係が重視され、内陸部に伝えられた日本情報が同地域で変容したプロセスに関しては、包括的な研究が行われていない。特にボヘミアや モラヴィアなど「 東欧 」に関しては、19世紀以降の政治的諸事象の影響もあり、日欧交流に関する歴史学研究がまだ十分に進められていない部分がある。

 この欧州内陸部では、宗派間の諍いが激しかったこともあり、九州を中心とした日本でキリスト教の布教が進んだあと、キリシタンが迫害され、その後江戸幕府がオランダ東インド会社との関係を深めたプロセスが、「日本がカトリックからプロテスタントへと「鞍替え」した」ように見えた可能性がある。このため、本報告は、日本と間接的な関係しか持たなかった欧州内陸部に伝えられた日本情報が、現地の諸事情に左右され変容したプロセスを辿り、世界布教と地域性に裏打ちされたイエズス会の手による「グローカルな日本人描写」が生産された過程の一端を、宗麟の描写を例に明らかにすることを試みている 。

 宗麟の描写は、17世紀後半にイエズス会の「上部ドイツ管区」でザビエル崇敬が高まるにつれて、神聖ローマ帝国南部で広まっていった。同地域ではザビエルの祝日には宗麟に言及した説教が行われ、出版されたザビエルの伝記でも宗麟のことが伝えられている。さらに、宗麟を主人公にした「イエズス会劇Jesuitentheater 」も上演されるようになった。このような宗麟描写は枚挙にいとまがないが、中でも特に興味深いのは、ザビエルが宗麟の前で仏教の僧と宗論を戦わせている描写の広がりである。

 このシーンは1551年のいわゆる「山口の宗論」をアレンジしたものであると考えられている。この年に山口の大内義隆 の前で日本初のキリスト教と仏教の宗論が開始されたことはよく知られているが、この宗論の報告は、ザビエルによって書かれた1552年の書簡などによってヨーロッパに伝えられた。ザビエルの書簡は、後にルイス・フロイスの『日本史』が 書かれた際にも参照されていたと言われている。この宗論の場面は、17世紀末のモラヴィアでイエズス会が運営していた オロモウツ大学の関係者によって、大友宗麟の前でザビエルと仏僧が議論する場面「Bungoの宗論」の場面として印刷物 に「再現」された。その後、この銅版画はモラヴィアのオロモウツからボヘミアのプラハ、ポーランドのヴロツワフ、チロル地方のカップルなどへ伝わり、その構図が絵画やフレスコ画の 制作の際に用いられていることが、申請者の調査で 明らかになってきた。さらに、バイエルンのカムミュンスターには、これらの描写の影響を受けたと思われる「山口の宗論」の描写が残されていることも確認できた。

 以上の宗論の場面の展開は、ザビエル崇敬が高まる中で、ザビエルとの関係が薄かった大内義隆より、ザビエルとの関係が深く、カトリックに改宗する際にザビエルの洗礼名を真似た大友宗麟の方が欧州内陸部のイエズス会にとってインパクトがあったからこそ生じた素材の「すり替え」と考えられる。ちなみに、これらの宗論の描写には欧州内陸部が直面していたオスマン帝国との戦争や、プロテスタントとの対峙も影響を与えている可能性が高い。特にブロツワフに残されている絵画では、宗麟が「ムーア人」として描写されていることから、対トルコ戦争の影響は明らかのように思われる。描写の構図が何に影響されているかは、今後より細分化して詳しく調べていく必要があるが、その際、ボヘミアやモラヴィアなどでは対トルコ戦争の影響に加え、1519年の「ライプツィヒの討論」、コンスタンツ公会議におけるヤン・フスの描写などの影響がないか、調査していく必要がありそうだ 。

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報告要旨 有村理恵(2021年8月20日)

2021年度夏季研究大会報告要旨(2021年8月20日 オンライン開催)

キリシタン時代のロザリオと数珠の交点について

有村理恵

 ロザリオ、数珠といった念珠は、古代インド宗教に起源をもち、東西に伝播したとするW.C.スミス提唱の理論が長らく定説とされてきた。しかし、近年この学説を疑問視する向きもある。シルク・ロードを通って展開した東西の影響は皆無であるとは断言できないが、諸宗教が独自の発展を遂げてきたという見方もある。いずれにせよ、近世日本のカトリック宣教において、ロザリオに類似した仏教の数珠を宣教師たちはどう理解し、日本人はロザリオをどう受け止め、自らのキリシタン信仰の中に取り入れていったのか。近世日本布教におけるロザリオ信仰の重要性は、文献のみならず、キリシタン関係遺品においても垣間見ることができる。元来、ロザリオ信仰はドミニコ会を中心に発展した信仰であるが、同会の許可を得て、別の修道会がロザリオを広めることは許されていた。事実、日本で初めてロザリオ信仰を伝えたのは、宣教を開始したイエズス会であり、同会画学舎で聖画を学んだ日本人により制作された「マリア十五玄義図」が二点(東家本、原田家本)残されている。また、1599年、江戸に建立されたフランシスコ会教会では、マニラのドミニコ会管区長の承諾のもと、ロザリオ聖母が守護聖人として祀られた。フランシスコ会によるロザリオ信仰は、独自の発展を遂げ、「フランシスコ会の冠(フランシスカン・クラウン)」と呼ばれる。近世日本においても、この「フランシスコ会の冠」信仰の足跡が確認でき、支倉常長将来品「ロザリオ聖母と四聖人」(仙台市博物館所蔵)では、ロザリオ聖母が聖フランシスコに念珠を与える構図で描かれている。また、長崎県外海で発見されたフランシスコ会系「マリア十五玄義図」(原爆により焼失)は、同会におけるロザリオ信仰の重要性を示す一資料と言える。
 当報告では、まず、宣教師らが仏教の数珠をどのように理解していたのかという問題に触れた。文献上、数珠を使って祈ることは、健康や幸福といった現世利益を祈願する民衆信仰と関連していると記されており、民衆仏教と祝福されたコンタツに宿る聖なる力を信じるキリシタン信仰の間に接点があることが確認できた。次に、ルイス・フロイスやマルセロ・デ・リバデネイラの記録を基に、キリシタン信者らの間でロザリオと仏教の祈りが共存していた事実を取り上げた。最後に、外海で発見された「マリア十五玄義図」では、十五玄義の図が日本語の読み方と同様、右から左へ並べられているのに対し、東家本、原田家本では西洋絵画の構図と全く一致している点に触れた。後者の作品がより西洋化されている要因として、浄土宗の「當麻曼荼羅」の類似点が、聖ロザリオ信仰表象の受容につながった可能性を検証した。

 

 当報告は、メキシコ国立自治大学学術人事総合局助成研究プロジェクト PAPIIT IN401019「Experiencia interreligiosa y arte durante la primera expansión europea: la devoción e imágenes del rosario en el Japón (1549-1873) 第一次ヨーロッパ領土拡張時代の宗教間体験と美術:日本のロザリオ信仰と聖像 (1549-1873)」 の成果の一部であり、詳細については、以下の論文を参照されたい。
Arimura, Rie, “The origins, spread and interfaith connections around the prayer beads: A case study of the evangelization of Japan”, Anales del Instituto de Investigaciones Estéticas, vol. XLIII, núm. 119, 2021.

----, “El Rosario y el juzu: experiencias interreligiosas del periodo Kirishitan ロザリオと数珠―キリシタン時代の宗教間体験―”, en Ensayos del Seminario Permanente de Investigación de Arte y Cultura México-Japón. Volumen I. Miradas sobre las intersecciones culturales メキシコ日本芸術文化研究常設セミナー論集 第一巻:文化交差へのまなざし, coord. Amadís Ross y Miki Yokoigawa, México, Centro Nacional de Investigación, Documentación e Información de Artes Plásticas, Centro Nacional de Investigacion, Documentacion e Informacion Teatral Rodolfo Usigli, The Japan Foundation (en prensa).

 

 

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報告要旨 齊藤豪大(2017年8月10日)

2017年度夏季研究大会報告要旨(2017年8月10日 北九州市立大学)

近世ポルトガルの塩生産と塩輸出
                               
—在リスボンスウェーデン領事の立場から—

                                    齊藤 豪大

本報告の目的は、リスボンに派遣されたスウェーデン領事が記録した、もしくは関係する史料の分析を通じて、近世ポルトガルにおける塩生産と塩輸出の問題について考察することにある。冷蔵技術がない前近代において、塩は重要な保存料であった。
 海に面していながら塩を生産することが困難であったスウェーデンでは、塩の安定供給が重要な問題とされてきた。特に近世では、スウェーデン商務顧問会議(Kommerskollegium)が南欧各地に領事を派遣し、塩取引に関する情報網を構築していった。そして、スウェーデンにとって最重要の塩生産国、それがポルトガルであった。
 ポルトガル塩業史研究においては、Rau (1969) を嚆矢としてセトゥーバルを中心とする製塩業やその経済的な問題について研究が進められてきた。また、スウェーデン経済史研究においてもMüller (2004) やLindberg (2009)などがポルトガル産塩を輸入する上での諸問題について検討してきた。そこで本報告では、在ポルトガルスウェーデン領事やその関係者が記録した史料の分析を通じて、ポルトガルにおける塩生産やその輸出状況について検討を行った。これにより、塩の品質差、また北部では上級の塩が多く、南部では低級の塩が多く生産されたこと、さらには上級の塩については輸出用として取引されていたことなどが明らかとなった。

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