報告要旨

報告要旨 齊藤豪大(2017年8月10日)

2017年度夏季研究大会報告要旨(2017年8月10日 北九州市立大学)

近世ポルトガルの塩生産と塩輸出
                               
—在リスボンスウェーデン領事の立場から—

                                    齊藤 豪大

本報告の目的は、リスボンに派遣されたスウェーデン領事が記録した、もしくは関係する史料の分析を通じて、近世ポルトガルにおける塩生産と塩輸出の問題について考察することにある。冷蔵技術がない前近代において、塩は重要な保存料であった。
 海に面していながら塩を生産することが困難であったスウェーデンでは、塩の安定供給が重要な問題とされてきた。特に近世では、スウェーデン商務顧問会議(Kommerskollegium)が南欧各地に領事を派遣し、塩取引に関する情報網を構築していった。そして、スウェーデンにとって最重要の塩生産国、それがポルトガルであった。
 ポルトガル塩業史研究においては、Rau (1969) を嚆矢としてセトゥーバルを中心とする製塩業やその経済的な問題について研究が進められてきた。また、スウェーデン経済史研究においてもMüller (2004) やLindberg (2009)などがポルトガル産塩を輸入する上での諸問題について検討してきた。そこで本報告では、在ポルトガルスウェーデン領事やその関係者が記録した史料の分析を通じて、ポルトガルにおける塩生産やその輸出状況について検討を行った。これにより、塩の品質差、また北部では上級の塩が多く、南部では低級の塩が多く生産されたこと、さらには上級の塩については輸出用として取引されていたことなどが明らかとなった。

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報告要旨 疇谷憲洋(2017年8月10日)

2017年度夏季研究大会報告要旨(2017年8月10日 北九州市立大学)
リスボン地震(1755)からの復興とポンバル改革
                              疇谷憲洋

ポルトガル国王ジョゼ1世の治世(1750~77)は、「ポンバル時代」とも呼ばれている。これは、ポンバル侯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァリョ・イ・メロが、後に「啓蒙専制主義」とも称される手法で、政治・経済・文化・教育など多岐に渡る様々な改革を行い、ポルトガルの近代化の基礎を築いたとされているのがその理由である。
 しかしながら、ポンバルが実権を掌握し、全般的な改革を推進するのは1756年以降であり、これは、1755年のリスボン地震への対応や復興に関してかれが中心的な役割を果たしたのと対応している。本報告では、「再独立」後の状況と国務秘書体制の構築について述べ、震災時のポンバルの位置付けを明らかにしたのち、震災対応・再建事業とポンバル政権の成立、それが近代ポルトガル政治文化において持つ意義についても検討する。
 スペインとの同君連合期(1580年~1640年)には、ポルトガルは、マドリッドのポルトガル評議会と、スペイン王権の代理人である副王/総督を通じて統治されていた。1640年のクーデターによってブラガンサ朝が成立すると、このクーデターを支持したポルトガル貴族が台頭し、各種顧問会議、評議会や委員会の主要メンバーとなって国政の中心に位置する。こうした多頭政的な体制に対し、国王は、秘書官職を設置して各会議間の調整を行うとともに、国政に影響力を行使していた。ジョアン5世期に、様々な官職を兼務していた寵臣・秘書官コルテ・レアルが死去すると、新たに内務担当、外務・陸軍担当、海外領・海軍担当の三つの国務秘書官職が設置され、他の寵臣とともに国王権力を支える存在となる。
1750年にジョゼ1世が即位すると、ポンバルが外務・陸軍担当国務秘書官に任命される。彼の最初の仕事の一つが、アメリカにおける境界画定(マドリッド条約)の実施であり、弟のマラニャン・パラ総督メンドンサ・フルタードを派遣して、境界画定作業とアマゾン流域の防衛の強化に乗り出す。その一方で、ポンバルは、アマゾン川流域の開発を目的とするグラン・パラ&マラニャン総合会社設立するが、こうした一連の政策は、この地域に先住民教化村を有するイエズス会との対立を招くものであった。
 1755年のリスボン地震は、こうした状況下で起こった。犠牲者1万人以上を数え、震動・津波・火災で市中心部は壊滅的被害を受け、ポルトガル王家はベレン宮で難を逃れたものの、政府機能は物理的に破壊された。こうした中で、ポルトガル政府は、ポンバルを中心に「対応政府」を構築し震災対策と都市再建を進めていく。アマドール・パトリシオ・デ・リズボア著『地震に対する主要な措置の覚書』によれば、犠牲者の埋葬と疫病予防、食・住の確保、「火事場泥棒」の逮捕・処刑、流言蜚語の取り締まりなど、今日の震災対策とも共通するものが多い。首都再建については、王国技官長マヌエル・ダ・マイアを中心とする技官グループに再建案を作成させ、市中心部を格子状の街路で区画し、免震構造を取り入れ規格化された建築を採用して再建することになった。
 こうした震災対応・再建事業を通じて、それまで外務・陸軍担当であったポンバルは、内務担当に異動するとともに、以後、国務秘書官人事はポンバルを中心に行われ、いわゆる「ポンバル政権」の成立を見る。王室財務府や警察総監局といった新たな政府部局が創設され、王権の強化と中央集権化が進んでいく一方で、ポンバルと対立した大貴族やイエズス会は迫害・追放される。権力の確立と並行しながら、ポンバルは、宮宰職、オエイラス伯爵位、ポンバル公爵位を自らが授けられるだけでなく、弟のメンドンサ・フルタードは海外領担当国務秘書官、パウロ・デ・カルヴァーリョも異端審問所長官に任命されるなど、一族の栄達と権力の強化も図っている。
 このポンバル政権の下で再建された都市リスボンの中に、王宮は再建されず、震災前のテレイロ・ド・パソ(王宮広場)は方形に区画されてプラサ・ド・コメルシオ(商業広場)に名称変更されたが、これは、リスボン再建事業と、ポンバルの重商主義・ブルジョワジー保護政策の関連を示すものであり、パッセイオ・プブリコ(「公共遊歩道」)の設置(1764年構想)も、「ブルジョワの世紀」19世紀を予見するものであった。
 1775年にはプラサ・ド・コメルシオにジョゼ1世騎馬像が設置される。その除幕式には祝宴が催され、リスボン再建の「記念碑」的存在となったが、その台座部分にはポンバルの胸像のメダイヨンがはめ込まれた。震災と復興、その過程で起きた独裁的な権力の誕生、国王ではない政治家個人の「栄光化」という、ポルトガルの政治文化史上特異な経験を今日に伝えている。

[資料]
Freire, Francisco José( Amador Patrício de Lisboa), Memorias das principaes providencias, que se deraõ no terremoto, que padeceo a Corte de Lisboa no anno de 1755, ordenadas, e offerecidas à Majestade Fidelissima de Elrey D. Joseph I. Nosso Senhor ,Lisboa , 1758
[二次文献]
Araújo, Ana Cristina, O Terramoto de 1755, Lisboa e Europa, Correios de Portugal, 2005.
Azevedo, João Lúcio de, O marquês de Pombal e a sua época, (2.ª edição), Clássica Editora, 1990.
Cardoso, José Luís , ‘Pombal, o Terramoto e a Política de Regulação Económica’, in O Terramoto de 1755-Impactos Históricos-, Livros Horizonte, 2007.
Chantal, Suzanne, A Vida Quotidiana em Portugal ao Tempo de Terramoto, Edição Livros do Brasil Lisboa, (sem data).
Fonseca, João Duarte, 1755, O Terramoto de Lisboa, (2.ª edição), Argumentum, 2005
França, José-Augusto, Lisboa Pombalina e o Iluminismo, Livraria Bertrand, 1983.
Macedo, Borges de, A Situação Económica no Tempo de Pombal, Porto, 1951.
Maxwell, Kenneth R., Pombal, Paradox of the Enlightenment, Cambridge University Press, 1995.
Mascarenhas, Jorge, Sistemas Construção-V, (2.ª edição), Livros Horizonte, 2005
Monteiro, Nuno Gonçalo, D. José, na sombra de Pombal, Temas e Debates, 2008.
Priore, Mary del, O Mal sobre a Terra, Topbooks, 2003
Santos, J.J. Carvalhão, Literatura e Política, Pombalismo e Antipombalismo, Minerva, 1991
Santos, M. H. Ribeiro dos, A Baixa Pombalina-Passado e Futuro, Livros Horizonte, 2005
Subtil, José, O Terramoto político (1755-1759), Memória e Poder, Universidade Autónoma de Lisboa, 2006.
AA.VV., O Terramoto de 1755-Impactos Históricos-, Livros Horizonte, 2007
疇谷憲洋,「ポンバル政権の成立について-リスボン大地震の政治的影響-」,『大分県立芸術文化短期大学研究紀要』,第49巻,2012年,pp.31-41.
同,「同時代印刷物から見たリスボン地震(1755年)への反応と対策」,『大分県立芸術文化短期大学研究紀要』,第52巻,2015年,pp. 123-136.
同,「リスボン地震から近代国家への道-改革事業」,(公財)ひょうご震災21世紀研究機構研究調査本部研究調査報告書『リスボン地震とその文明史的意義の考察』,2015年,pp.32-45.

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報告要旨 野上 和裕(2017年8月10日)

2017年度夏季研究大会報告要旨(2017年8月10日 北九州市立大学)
スペイン19世紀議会主義試論
                                       野上和裕

「研究上の問い」Research Question
スペインの議会制について、脆弱性・遅延・「ブルジョア革命の不在」といったスペインの特殊性を前提して「正常な議会制」との比較により欠落部分を探求する見方からの脱却を進め、他国と比較しても遜色のない議会制が強固に定着した国である可能性を踏まえて、スペインの議会制に存在する特質・「先進性」・問題点を点検しよう。

要旨
議会制と王権との関係は、両者を対立的に捉えるヒンツェ以降の歴史学の流行と異なり、むしろ中央権力=王権の成長や近代国家の成立が議会制を生んだと言える。スペインでは、カディス議会の招集、イサベル2世の王位継承権の確保の例を見ても、王権と議会制の結合が強く、相互に補強する存在であった。スペインの議会制を19世紀ヨーロッパにおいて見るとき、制限選挙であったことは逸脱例でない。少なくとも世紀半ばまで、スペインはもっとも選挙権が拡大し、平等化が進んでいた国のひとつであった。軍人の問題を別とすれば、スペインは議会主義の定着という点で他国と比較して強固であったとさえ言える。そこで、スペインにおける党派の対立をヨーロッパ全体の文脈で捉え直すと、ModeradosとProgresistasは、後者が前者よりも議会主義的であると言えない。Moderadosも、議会中心の政治体制を構想し、政党政治論を生み出した。Moderadosがカディス憲法の「国民主権」を否定し、議会”Las Cortes con el Rey”に主権を求めたのは亡命先のイギリスの混合政体論の輸入と言える。カディス憲法でカトリックが国教とされたことに自由主義の限界を指摘する見解もあるが、イギリスで審査法が廃止され、カトリック解放が実現するのは1828年と29年のことであり、もちろん現在でも国教が存在する。イギリスの議会制とスペインのそれとで大きく違うのは、イギリスで選挙権がいわば党利党略として政治家の信条に反して拡大されていったため、選挙民に訴える政策とそれを実現する行政能力を伴ったのに対して、スペインでは、男子普通選挙が自由主義のプログラムとして1890年という早い段階で導入されたことにある。ここに、19世紀スペインにおける議会主義の「先進性」の逆機能というパラドックスの可能性がある。

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報告要旨 富田広樹(2017年8月10日)

2017年度夏季研究大会報告要旨(2017年8月10日 北九州市立大学)
偽作者の詩学
―ホセ・デ・カダルソの『鬱夜』とそのパラテクスト群―

                                                                                富田 広樹

スペイン・ロマン主義文学の草創期における代表的な作品のひとつであるホセ・デ・カダルソの『鬱夜』(邦訳は『モロッコ人の手紙 鬱夜』富田広樹訳、現代企画室、2017年所収)は唐突とも思われる結末を有する。それゆえにこの作品をめぐっては、作者自身によっては完成したものとして扱われているにもかかわらず、物語のさらなる続きとその結末を知りたいと願う読者の覚えた欲求不満、19世紀を通じて勃興する出版業界の商業的な野心とによって、作者の死後さまざまなパラテクスト(共存・平行するテクスト)が生成されることとなった。すなわち、偽作者による物語のつづきや新たな結末、作品成立の経緯をめぐる怪文書、そして突然の中断にまつわる弁明と創作の後日談を知らせる序文や結びといったテクスト群である。本発表ではその発展段階と傾向を概観し、19世紀の読者の欲望を逆に浮き彫りにすることを目的とした。
はじめに作品が不完全、すなわち未完であることをことさらに強調した時期があり(19世紀初頭)、つづいて新たに「第三夜のつづき」が発見されたとする時期(1815年)がある。この「つづき」では作品に教訓的な意味合いを与える企図が確認される。また手稿のレベルではこの「つづき」にさらなる「結末」を付したものが見られるが、そこにも同様の企図が見られる。さらに1817年には新たに発見されたとする「第四夜」があらわれるが、物語の主人公が恋人の亡骸を盗み出してその傍らで自死を遂げるという当初の企てを完遂するという先の「第三夜のつづき」とは正反対の結末が用意される。また同時に、カダルソの親しい友人が作成したという体裁の報告(「M. A. の手紙」)が作品中の出来事は現実に起こったことであるとして、作品の伝記的な解釈を助長するようになる(ただしこの文書の成立年代はより以前に遡ると思しい)。これによって主人公と作者カダルソとを同一視する読みが広がり、ついには1847年『彼自身によって書かれた、ドン・ホセ・カダルソ大佐の愛の物語』という副題を持つ版があらわれることとなる。いっぽうで1828年には贋作であることを明言しながら、あらたに『鬱夜』の第二部を収めた版があらわれ、この作品は同時代好みのトピックのひとつに転じてしまう。
カダルソの『鬱夜』という作品は19世紀のうちに40を遥かに超える版を数えることとなるが、以上のとおり、読み手の欲望を掻き立て、かつまた読み手の欲望に翻弄され、歪められながら伝播したのである。

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報告要旨 佐藤 泰(2017年8月10日)

2017年度夏季研究大会報告(2017年8月10日 北九州市立大学)
スペイン第二共和制史の「修正主義」と1936年選挙について 1936 Fraude y violencia en las elecciones del Frente Popular の書評を中心に 

                                               佐藤泰

1.1936年選挙とは
1936年選挙とは、1936年2月に投票が行われた、第二共和制期の三度目にして内戦勃発前最後の総選挙である。それまで1933年総選挙によって成立した右派・中道派が優勢の議会が続いていたが、36年1月に共和国大統領アルカラ=サモーラが解散権を行使し、この選挙が実施された。この選挙の最大の特徴は、共和左派から社会労働党PSOE、そして共産党も参加した広範な左派連合「人民戦線」が登場した点にある。これは、前回1933年選挙において右派および中道派に大敗した左派の諸政党が、政権奪還を目的として勢力を結集させたものである。この人民戦線が勝利を収めたため、この選挙は「人民戦線選挙」とも呼ばれる。
第二共和制期に実施された三度の総選挙それぞれの結果については、レジュメ末尾に図表を付した。選挙結果については研究書によっても微妙に異なるが、本報告では差し当たり1987年に有斐閣から出たスペイン史の本に掲載された選挙結果を使用した。また、後で説明するが、本書の筆者Villa GarcíaとÁlvarez Tardíoによる、選挙結果の推計もレジュメ末尾に付したので、併せてご覧いただければと思います。

2.本書の論点・主張
第二共和制の崩壊論には、左右いずれかの立場に立ち、自らの陣営の行動を正当化し相手側に体制崩壊の責任を帰する党派的な議論が多い。すなわち、改革の路線推進した左派を右派が暴力的な行動により妨害したという議論や、左派の暴力的な行動を非難する議論などである。そうした議論は、「左右どちらが先に議会制のルールを破り、政治的目的を達成するために暴力的行為に訴えるようになったか」という問いに焦点が当てられている。近年では専門家の間での影響を失ったが、未だ多くの一般の読者の支持を得るPrestonは、この文脈に位置づけることが出来る。
他方、本書の筆者Álvarez Tardío やVilla Garcíaは、スペイン現代史研究の従来の枠組みに対して疑問を提示する、いわゆる「修正主義」の文脈に位置づけられる。これまでの議論がマルクス主義からの影響が強い、経済還元論を議論の前提としていたのに対し、修正主義の議論の特徴は、経済的関係に規定されない政治家・議会のやり取りを分析する。こうした研究の切り口を第二共和制の分析に適用した結果、筆者たちはこれまでも多くの論争的な研究書を著してきた。
従来の第二共和制の歴史解釈では、共和制の5年間は総選挙を画期として「左→右→左」の三つの時代に整理される。すなわち、1931年4月の共和制成立から1933年末の総選挙までの「左の時代」、1933年11月選挙から1936年選挙までの間を「右の時代」、そして36年選挙から内戦の勃発までの短い期間を「左の時代」と解釈する見方である。先に挙げたPrestonもこうした見方をする研究者の一人である。彼は、左の時代の政権こそが民主的正統性をもつのであり、右の時代の政権は正統性を持たないと主張している。彼の議論によると、左の勝利に終わった31年と36年の二つの選挙が公平に行われたのに対して、右が勝利した33年選挙は不正が蔓延していたという。
本書をはじめとする、修正主義の立場では、こうした第二共和制解釈の枠組みをも疑問視する。本書の筆者の一人Villa Garcíaは、2011年に著したLa República en las Urnas(『投票箱の中の共和国』)において、1933年選挙を、選挙制度・社会的動員・個別の選挙区の選挙戦の様子など様々な切り口から分析した。彼によると、左派系の歴史家が否定的な評価を下す1933年こそ、「スペイン史上初の民主的選挙」であるという。またこれは、筆者が第二共和制の最初の総選挙である1931年選挙を民主的でなかったということを含意している。1931年選挙と33年選挙の第一の違いは女性参政権である。1931年選挙では女性に被選挙権が与えられたのみで、投票する権利が与えられていなかった。これは、女性は毎週日曜日に教会に通うのであり、保守的な神父の意のままに投票するものであるとして、共和左派政党が女性に投票させることを反対したためである。これに対して、33年総選挙は女性が初めて投票権を行使した国政選挙である。なお、この『投票箱の中の共和国』は、「女性が投票したから右派が勝利した」という言説を実証的に否定している。第二の違いは、競争である。体制成立から2か月後に行われた1931年選挙では、PSOEや共和左派政党が政党としての組織を全国レベルで形成し選挙に臨む態勢を整えていたのに対して、右派は政党の組織化が進んでいなかった。その2年後の33年選挙が行われる頃には右派の間でも組織化が進み、左右が公平な条件での競争が行われた。そして第三の違いは、政府による選挙介入の有無にある。1931年選挙では右派系の候補者に対して公的機関による妨害(例えば警察によって演説会が中止される等)が行われたのに対し、33年選挙においては公的機関は中立的立場を保ったという。以上の点から1933年の選挙こそが「スペイン史上初の民主的選挙」とされるのである。
それでは、1936年の選挙を筆者はどのような評価を下しているのか。本書は前回選挙と異なり、同選挙に対して否定的な見方を示す。本書は、1936年選挙が第二共和制の議会の機能を停止させる契機となったという評価を下しているためである。それは、以下の三つの根拠による。第一に、この選挙の争点が「革命か反革命か」という二項対立に収斂した点が挙げられる。1933年選挙での敗北を繰り返さないために、左派の諸政党は36年選挙に向けて連合交渉を進めた。この時、1934年の「10月革命」が左派の諸勢力を統合する象徴として用いられた。これは右派政党CEDAの入閣に際してPSOE及びPCEの活動家が全国で抗議活動を展開したものであり、特に武装蜂起が行われ蜂起側・当局側で合計1,000名以上の死者を出したアストゥリアス地方の例がよく知られている。左派がこの事件の首謀者に対する恩赦を公約として掲げると、右派は「10月革命」に示される左派の暴力に対する恐怖を、選挙連合の拡大のために用いた。その結果、選挙は「革命か反革命か」の二択を選択する国民投票となったという。つまり、選挙が民主的で平和的な政権交代の手続きでなく、政敵を排除するための手段となったのである。
第二に、選挙前後に暴力・脅迫が多発した点が挙げられる。選挙キャンペーン中から、左右いずれの活動家も敵対者の活動を暴力行為を用いて妨害した様子が本書では詳らかにされる。例えば、新聞の売り子に対する襲撃、候補者の演説会場に対する殴り込み、投票の強要などである。投票締め切り後、勝利を確信した左派政党の支持者は街頭に繰り出し、地方・中央問わず左派への即座の権力移譲を求めるデモを行った。中には票の集計会場に群衆が押し入った例もあり、選挙結果が正確に判明しなかった選挙区もある。このように、共産党のJosé Díazの言葉を借りるならば、左派人民戦線を支持する群衆は「自分たちの勝利を押し付ける」ための行動に出たのであった。右派候補者の当選取り消しなどを求めた。
第三に、こうした一部の左派による活動が議会外だけでなく議会内に置いても展開され、議会内における妥協形成の試みを阻害した点が指摘される。第二共和国の制度下では、国会の選挙の個々の選挙区の結果の合法性を確認する権限は議会に与えられている。そこで、選挙後の議会では個々の選挙区ごとに選挙過程における不正行為の有無を確認し、当該選挙区における結果について審議を行う。この委員会の構成は議会に占める政党の勢力の大きさに従って配分された。審議を主導したのは主に、PSOEの中の穏健派やIRの議員であった。こうした穏健派の議員らは投票・集計の手続きが適切に、合法的に行われたか否かという点を重視し、違法性の確認されない選挙区の結果については、左右いずれが勝利しようとも承認しようとしたという。
ところが、合法性を重視する冷静な議論は、急進的な左派の議員によって否定された。審議では、PSOE左派やPCEの議員が、右派が勝利した選挙区の結果についてことごとく異議申し立てをし、右派の優勢を覆そうとしたのである。こうした申し立ての多くは、事実無根の誹謗中傷であったにも拘わらず、右派に不利な決定が下された。この背景には、投票終了直後に成立したアサーニャ政権がPSOEの支持なしで政権を維持できないことがあった。PSOEはこの状況を利用して、政権を右派の当選取り消しに協力させようとした。
ここで、審議の結果、当初の投票結果に対してどのように変更が加えられたのかを見たい。筆者は審議の結果を図表にまとめている。それを日本語に直し、また3度の選挙結果(図表1)と政党の並びが合致するようにしたものが、レジュメ末尾の図表2である。図表の縦2列目は、1936年3月時、委員会開始時の投票結果に基づいた各政党の議席数である。そしてその隣の列は所属の変更に伴う議席数の変更である。これは、議会で個別の会派を形成するには最低10人の議員が必要とされるという規則によって起こったものである。例えば、アスケーラが大きく増加しているのに対して「諸派 左派」が大きく減少しているのが図表から分かる。これは、「諸派 左派」として括った政党の多くがカタルーニャの地域政党であり、個々の政党の勢力は10議席に満たない。そこで、こうした小政党の中にはカタルーニャ左翼ERCに合流することで議会での発言の機会を確保しようとしたのである。また、10に満たない政党に対して自党の人間を形式的に移籍することも行われた。アスケーラの「―1」にはこのような意味がある。
その隣が最も重要なデータで、当選委員会における審議の結果各政党・会派の議席がどの程度増減したかを示すもの、そして一番右が最終的な議席数である。ただし選挙のやり直しが決定したグラナダ及びクエンカ選挙区の結果は除かれている。このデータを見ると、数字の上で最も審議の影響を受けたのは右派の最大政党CEDAであることが分かる。3月の議会開会の時点では95議席有していたのが、最終的に8議席減らして87議席に落ち込んでいる。他方、左派は審議の結果議席を増やしたことが分かる。また、図表3は最終的に無効とされたグラナダ及びクエンカの選挙結果である。選挙のやり直しが決定されたグラナダ、クエンカ両選挙区は、図表が示すように左派が劣勢であったことが分かる。
さらに、左派が勝利した選挙区、カセレス、ラ・コルーニャ、サンタクルス・デ・テネリフェなどでは左派の活動家による投票妨害が起こった。他にも、集計作業中に権力の空白が生じたため、集計が当局の監督下で行われなかった地域があるという。筆者は、こうした全ての事情を勘案し、左派の最終的な獲得議席は226から230議席、右派の議席は223から27議席であったと推計している。つまり、左派の勢力はほぼ拮抗していたという。したがって、少なくとも、人民戦線が右派に対して勝利を収めたかどうかは不明確なのである。

3.議論のまとめ・今後の展望
以上が本書『1936年』の議論の概要である。最後に本書の議論を踏まえて「修正主義」の潮流と、今後の報告者の研究について述べる。
「修正主義」の議論は、実証的証拠を積み重ねていくことにより、従来の歴史解釈に対して批判を加えようとする。こうした研究は、第二共和制の場合、左派による歴史解釈に対する反論となって登場する。ところが、結果的に左派への反論を展開することになるため、「修正主義」は、例えばPío Moaなどのような、共和制そのものを否定する「フランコ派」の潮流と混同されてしまう恐れがある。
しかし、Pío Moaらと「修正主義」の違いは、共和制対する評価の違いにある。「修正主義」は共和制の欠点を指摘こそすれ、共和制や議会制そのものを否定している訳でない。この潮流に位置づけられる研究者たちが寄稿し、2012年に発表された論文集Spanish Republic Revisitedは、共和制の功罪を論じている。この研究書から共和制の正の側面を取り上げ、かつ画期的な議論を展開した具体的な例を挙げるならば、Nigel Townsonの論文A Third Way? Centrist Politics under the Republicが挙げられよう。この論文は、33年選挙以降の大半の時期に政権の座にあり、これまで左派から非難の対象となってきた急進党の政策の意義を論じたものである。この論文によると、「右翼の傀儡」「左派に対する裏切者」として蔑まれてきたレルー急進党政権は、左派の改革路線を軌道に乗せようと試み、いくつかの面においてアサーニャ政権よりも進歩的な政策を行った点が強調される。この論文は、「激しい左右対立」という二項対立として捉えられる第二共和制像に対して一定の批判と捉えることが可能である。
このように、修正主義の議論は、従来の左右対立の議論では焦点が当てられなかった側面に着目することで、第二共和制そのもののイメージを転換させる可能性を秘めたものであると考えられる。ただし,、こうした立場の議論には「フランコ派」だという非難がついて回る。

本書の議論を糸口に報告者は今後、以下の点から研究を進めていきたいと考えている。
第一に、大統領アルカラ=サモーラについてである。本書は、1936年初頭という時期が、議会解散のタイミングとして適していなかったと主張している。この点を掘り下げると、アルカラ=サモーラの責任論につながる。36年の議会解散は、アルカラ=サモーラがCEDAの党首ヒル=ロブレスを首相に任命することよりも大統領内閣を成立させ、その内閣が議会多数派の支持を得られないことが明らかになった末に取られた措置である。この決定に至るまでに、アルカラ=サモーラはどのような判断を場面場面で重ねてきたのか。彼の政治的目標だった「centrar la República共和国を中道化する」という言葉をキーワードに検討していきたい。
第二に、1934年10月の出来事についての検討である。1934年10月に起こった出来事が左右それぞれの行動に強い影響を及ぼしたことが本書の議論の前提とされている。この事件については左派の行動・反応に注目が集まっていた。例えば、この時展開された労働者の武装蜂起をファシズムの脅威に対する自衛措置として解釈するものや、政権側による事態鎮静の試みを左派政治家および労働者がどのように捉えたかを扱ったものなどである。
しかし、右派や中道派はこの事件をどう捉えたのだろうか。左派の側からは「苛烈な弾圧」とされている行動も、政府の側から見たら治安維持に必要な措置であり正当なものであると考えたと推測することが出来る。そこで、34年10月当時の政権による治安維持政策を分析し、左派の武装蜂起をどう鎮圧しようとしたか、また、鎮圧後の、蜂起首謀者への対応がどのように行われたかを検討したい。そうすることにより、従来とは別の側面から「10月革命」分析できるだろう。

●図表→「201702.pdf」をダウンロード



参考文献

立石博高 若松隆 編『概説スペイン史』 有斐閣、1987年.
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報告要旨 椎名浩(2016年8月13日)

2016年度夏季研究合宿報告(2016年8月13日 人吉温泉「国民宿舎 くまがわ荘」)
鎖国時代におけるスペイン関連情報・認識・関心―中間作業報告と今後の展望をふまえた備忘録
椎名 浩

I. これまでの経緯
 報告者が今回の報告に連なる一連の作業に着手したきっかけは、16世紀~現代までの日西関係の通史[坂東・椎名、2015]を執筆したことである。字数の限られた概括的な文章では、いきおい両国関係の「空白期間」としてひと飛びにされがちな、1624年(スペイン船来航禁止)と1868年(日西修好通商条約締結)の間の240年あまりは、実は16世紀以来の日西関係史上最長の期間であり、本格的な通史を述べようと思えば「空白」としてとどめるわけにもいかず、一つの「時代」としてあつかう必要が生じた。そこで「関係史」を関心を直接的な国家間関係・交通・貿易にとどめず、当時の日本へのスペイン情報や知識の伝播、それについての日本人の側の関心の有無にも広げた。(*既刊の文献では[坂東省次、2005]がこの問題に着目、新井白石と朽木昌綱を取り上げている)。報告者はこの関心に沿って、史料類型ごとにオランダ風説書、各時代の地理書、江戸後期の平戸藩主松浦静山が執筆した随筆『甲子夜話』を取り上げた論文[椎名浩、2013:2015:2016]を執筆、うちオランダ風説書と地理書について検討した[2013][2015]の内容を通史第4章に反映させた。現在はフィリピン諸島、北米の旧スペイン領域への漂流記録をあつかった論稿を準備中である。
 さて、このように当初は通史執筆の必要に迫られて着手した一連の作業であるが、作業を進めていくうち、単なる「空白埋め」にとどまらず、近世日本の対外関係・対外認識のあり方に関わるテーマに行きあたることに気づいた。そこで、これにその他の類型の資料についての検討を加えて、浅学を顧みず単著にまとめる野望(?)を抱いてしまったわけである。現在はその準備・執筆の過程にあるが、報告の場をいただいた機会に、問題の整理の意味でもこれまでの作業や考察を振り返り、今後の作業の展望を示したい。

II. これまでの作業で分かったこと
 1.史料の類型
 海外情報についての情報源となる文字情報を比較すると、表1のようになる。
即時的情報を鎖国時代のほぼ全期間中蓄積したという点ではオランダ風説書が、体系的な知識を提供し、かつそれが広く共有された点では地理・地誌書が、特に重要である。
江戸時代も末期になると、[椎名浩、2016]であつかった『甲子夜話』のように、(藩主という立場とはいえ)これらの情報源を自らの問題意識・知的好奇心にしたがって縦横に「活用」する営みが見られる。
 2.情報・記事・知識・認識・関心
 ナマの海外情報が文字情報化され、蓄積していく過程を、オランダ風説書を例に図式化すると、図1のようになろう。オランダ船がもらたす高度な海外情報は幕府の独占的な管理下に置かれたものの、情報獲得の最初の「現場」はオランダ人と長崎オランダ通詞とのオーラルなやりとりを基本としていた。それは、通詞とオランダ商館との日常的なコミュニケーション・情報共有を前提としたし、両者の間での暗黙の「オフレコ」の可能性も、(幕府側からみれば)甘受せざるをえなかった。
 別の言い方をすれば、幕府によるオランダからの情報収集は通詞集団という「中間団体」を通じて遂行されたということであり、日本の「近世国家」の権力論としても興味深い。
 もとより幕府も、オランダ風説書に大いに頼みつつ、それに全面的に依拠することの限界性・危険性は認識していたようであり、18世紀の享保の改革にともなう洋書輸入の緩和、江戸末期の蕃書取調処の設置などは、蘭学・洋学発達史の中で語られるが、幕府が、長崎(オランダ船→通詞のライン)とは別の、それに対抗しうる海外情報センターを構築しようとしたとみると、また興味深いものがある。
 3.時代局面とのかかわり
 松方冬子氏は、日本の対外関心のあり方の推移を、
①カトリックの脅威の時代
②知的好奇心の時代
③近代の脅威の時代 
に区分している[松方冬子、2010]。スペインは①の関心(脅威)の中核的存在であり、オランダ風説書の成立動機に関わる。「脅威」ではなくなった後も、スペイン情勢(王家の動向など)は引き続き関心をひいたようである。オランダ風説書でいえば、全体で70件強の記事がある。
 4.風説書スペイン関連記事の空白期間
 天明4(1784)年の風説書から文政6(1823)年の風説書まで、スペイン記事に約40年の空白期間が存在する。それはまた近世から近代へのスペインの激動期と一致しており、日本の対外関心が②から③の局面に移る時期でもある。1923年にふたたび現れ、以後1844年まで断続的に登場するものの、この時代になるとスペイン記事は、「近代の脅威」をするどく突きつける国々への関心に埋没した観がある。
 5.三国観から万国観へ、南蛮国からヨーロッパの中のスペインへ
 地理書においては、当初伝統的な三国観(本朝・唐・天竺)あるいは中華世界観を援用しながら、伝統的空間の外延部に到達し、そこから来日した存在としてスペイン人・スペイン船を位置付ける。
 その後、万国・五大州の概念が導入され、その一つヨーロッパの1国としてスペインを位置付ける。いわば同心円的・遠近法的世界観の「ルソンから来た南蛮人」から、俯瞰的万国観の「ヨーロッパの中のスペイン」への変化、ないし理解の深化である(図2参照)。
18世紀末以降は地誌情報が詳細になるのに加え、自国と交渉を開始する以前~同時代に至る歴史歴経緯も理解されるようになる。
 6.意外と含蓄ある「いすぱにや」理解
 江戸期の「いすぱにや」は当初ポルトガルを含む概念で、実際に交渉のあった時期の用語「南蛮」と同定される。ローマ属州名に語源を発するHispaniaが伝統的にイベリア半島全体をさす地理的概念だったことと一致している。海外進出の果てに日本にも来航したのは「かすていら」(カスティーリャ)であったという理解は中・近世イベリアの「複合王政」とも符合し、理解不足というよりむしろ正鵠を得ている。
 その後18世紀末には、「いすぱにや」の指すところはポルトガルを除いた実体的政治領域(こんにちの「スペイン」に近いもの)に移る。日本側の理解の深まりもさることながら、情報源であるヨーロッパでの変化が影響している要因も大きい。
 7.『甲子夜話』にみるスペインへの関心
 松浦静山の随筆『甲子夜話』では、かつて貿易と並行してキリシタン流布の拠点となったルソンと、最近のヨーロッパ情勢についての記事に現れるスペインが結びついていない。松浦静山は海外の文物に持ち前の知的好奇心を示しつつも、平戸藩主として同時代の対外情勢への関心も強く、スペインの地理・歴史を定点的に流れとしてみるというより、同時代の情勢に対応する「鑑」「戒め」としてかつての南蛮・キリシタン時代を見ている。
●参考:表1、図1、図2→ 「201602.pdf」をダウンロード

III. 今後の展望
 1.多様な史料類型とスペイン情報の流布・活用
 検討途上の漂流記録をふくめ、さらに多様な類型の資料を検討していきたい。とくに禁教・鎖国の過程と並行して登場した反キリシタン書、史書、軍記、さらに大衆文学・芸能作品は、情報源との関係では二次的・三次的史料であるが、スペインへの認識・イメージ形成にとって重要であるとおもわれる。
 2.幕末・明治の展望―消極的無関心から積極的低評価へ?
 今回検討した両国断交期の240年間は単に長いだけでなく、明治以降のスペイン認識の基礎を作った点でも重要である。とくに江戸末期の関心の低下は、明治以降のスペイン軽視・無関心を準備したと言える。ただ明治初年の知識人は、欧米諸国に対してもう一歩踏み込んだ優劣比較を行っている(その中でスペインが「劣位」に位置づけられるのは言うまでもない)。代表的な例としては、岩倉使節に同行した久米邦武が著した『米欧回覧実記』が挙げられる。
 こうしたスペインに対する積極的な(?)低評価は、江戸後期の単純な関心低下からは、やや質的変化をともなうようにも見える。こうした態度の背景には、欧米モデルの近代国家建設の緊急性と、使節や留学を通して欧米の現地を見聞出来るようになったことがあるというのは容易に想像できるが、優劣比較については幕末にその素地があったのかどうかが興味深いところである。
 3.そのころ、スペインのほうはどうしてたんだ!?
 かつて膨大な日本情報をヨーロッパに発信したスペインでは、この間どのような日本情報が流布していたのか。「相互の情報伝達」という観点からは、並行してこちらの動向も確認したい。17世紀中は各地の都市史・地方史の著作で、地元出身の宣教師の殉教伝がよく紹介されたが[椎名浩、2011]、18世紀の啓蒙期、18世紀前半までについては未確認で、今後の課題としたい。
 4.執筆方針の抜本的見直し
 最後に、今回の報告後に考察したことをもう1点加筆して結びとしたい。冒頭でふれた著書を構想するにあたって、報告の時点では史料類型ごとの章構成を想定していた。それは既刊の数点の論稿の合本+αという作業見通しの中で、(あまり深く考えずに)自然に浮かんだ発想であったが、その後、報告者が担当している大学講義でこのテーマを複数回取り上げる機会があり、その際、II-3、4で紹介した①~③の局面も念頭に置きながら、鎖国当初~幕末までを時代ごとに区切って構成した方が話しやすく、聴きやすいとの印象を得た(後者は報告者の勝手な印象だが)。おそらくこれは、想定している著作の「書き手」と「読み手」の関係にも通じるものがありそうだ。
 そう考えながらあらためて先の時代局面をながめると、①はハプスブルク朝の末期にあたり、①から②への過渡期にあたる新井白石はブルボン朝の開始とスペイン継承戦争の報に接し、③に入る時期、ことにオランダ風説書の空白期はアンシャンレジームの解体期に対応するなど、日本の対外関係・関心の画期とスペイン史上の重要局面がおもしろいほどに重なっていることに気づく。これは偶然の一致というより、おそらく日西ともに共通した、ある「世界史」的状況の中にあったことを示唆している。今後は、こうした時代局面の変化を踏まえた形に改稿しながらの執筆作業になりそうである。この場合、考察する時代の大部分にわたって継続的に作成されるオランダ風説書が全体の「縦軸」となりうると予想される。*参考:2017年8月の報告

参考文献
坂東省次「日本におけるスペイン学の歩み」坂東編『スペイン関係文献目録』行路社、2005年所収。
松方冬子『オランダ風説書 鎖国日本が見た世界』中公新書、2010年。

坂東省次・椎名浩『日本とスペイン 文化交流の歴史 南蛮・キリシタン時代から現代まで』原書房、2015年、第4章「鎖国時代のスペイン情報」。
拙稿「近世スペイン都市年代記の日本記事―マドリードとセビーリャの事例」『スペイン学』13、2011年。
拙稿「オランダ風説書におけるスペイン関連記事」『スペイン学』15、2013年。
拙稿「江戸期地理書におけるスペイン関連記事」『スペイン学』17、2015年。
拙稿「『甲子夜話』における海外関連記事―スペイン・マニラ関連記事を中心に」『スペイン学』18、2016年。

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報告要旨 椎名浩(2017年8月10日)

2017年度夏季研究大会報告 (2017年8月10日 北九州市立大学)
関係断絶期の日本におけるスペイン情報伝達の時代局面―オランダ風説書の記事を中心に
椎名 浩

はじめに
 1624年にスペイン船の来航が禁止されてから、1868年に日西修好通商条約が締結されるまでの240年余りは両国関係の断絶期であり、それはまた、幕藩体制下のいわゆる鎖国期とほぼ重なる。しかしこの時代にも、今回取り上げるオランダ風説書他を通じて、幕府当局はリアルタイムのヨーロッパ情勢を相当程度把握していた。また漢書のちにはオランダ語書物を通じ、知識人の間で各国地理の知識も共有されており、スペインもその例外ではなかった。同時に、スペインがかつての大国の地位を退いたことも認識され、幕末・明治以降の同国への低い関心は、既にこの時期に胚胎していた節がある。報告者はこのような問題関心にたって2015年に両国関係通史の共著を執筆し、これと前後してオランダ風説書他いくつかの史料についての論稿を発表した。
これらを執筆していくうち、ことは近世の対外関係・対外認識あり方に関わる問題を含むことに気づき、既出の論稿に加筆する形で一冊の著書に仕上げる計画を思い立ち、目下執筆中である。「既出論稿の合本+α」という作業の経緯もあり、当初史料類型に即した章構成を予定しており、昨年人吉温泉で行った夏合宿での報告もそれに沿ったものであった。
 だがその後執筆を進めていくうち、240年間を一様な「鎖国時代」としてあつかうより、その中での経緯変遷を踏まえて構成した方がより実り多いと考えるようになった(福岡女学院大で担当した講義中このテーマを複数回取り上げた際の作業体験も大きく影響した)。そこで報告者は、松方冬子氏の2010年の著書での時代区分(カトリックの脅威の時代・知的好奇心の時代・近代国家の脅威の時代)からヒントを得て、全体を時代順に17世紀・「短い18世紀」・19世紀(幕末開国まで)の3部構成とし、目下この方針にそって改稿・執筆を進めているところである。
 もとより両国関係断絶期の大半(1641~1857年)にわたって作成され続けたオランダ風説書は、この構成では3つの章に分割した形で言及せざるを得ないが、裏を返せば、オランダ風説書記事の分析が、鎖国期日本の対外認識・関心の変遷を最も鮮明に表すという意味で、著書全体の「縦軸」としての役割が期待できるということでもある。しかも今回お話しするように、風説書の中でのスペイン関連記事の消長は、スペインの歴史の歩みと「出来すぎ」なほどに同調するような動きを見せており、グローバル・ヒストリーの観点からも興味深い素材を提供しうるのではないかと考える。

1.風説書全体の中での、スペイン関連記事の特徴
 『集成』に収録されたオランダ風説書には、何らかの形でスペイン(「イスパニヤ」「南蛮」他のうちスペインと解釈できるもの)、メキシコ、フィリピンに言及した記事が73件存在する。うちフィリピンに言及した記事が9件、ヌエバ・エスパーニャの記事が2件(ともにフィリピンと同時に言及)、独立後のメキシコに触れた記事が1件ある。
 オランダ風説書に登場する国名・地名(風説書全体に当然あまねく登場するオランダ・バタヴィアをのぞく)を記事数順に並べてみると、スペイン関連記事はフランス(180件)、イギリス(158件)にはおよばないものの、その他の国の中では登場頻度の高いグループに属する。
 風説書に一定数の記事がみられる国々の顔ぶれをみると、
 ①南蛮・キリシタン国
 ②オランダのライバル・敵性国
 ③ヨーロッパの情勢に影響を与える国
 ④十八世紀末以降、日本近海を騒がすようになった国 
という傾向がみられる。このうち②にはオランダ側の事情が反映し、他は主に日本(幕府)側の関心を反映したものだが、これらの要素は互いに影響し合っている。とくに①と②は密接に関連しあって風説書の成立にかかわっているし、オランダが②とみなす国について、日本側の①への関心(懸念)に沿う情報を送ることで、自国の対日関係を維持する意図がみられる。
 記事数がとくに多い国のうち、イギリスは①をのぞく3要素を兼ね備え、他方フランスはカトリック国だが①の要素は薄く、もっぱら③の中核的存在で状況によって②となる国であった(幕末まで④の要素は薄い)。③に当てはまる国としては他にオーストリア(35件)、トルコ(29件)、プロイセン(19件)、スウェーデン(14件)等があげられる。ロシア(53件)は17世紀末~18世紀に入る頃から③としての存在感を増し、18世紀末からイギリスと並んで④の主要国となった。スペインは①②の代表国であるとともに、意外と遅い時期まで、③の点でも重視される国であった(表1参照)。

2.スペイン関連記事の「出来すぎた」時系列
 またスペイン関連記事を時系列でみると、元禄9(1696)年風説書まで、元禄15(1702)年風説書から天明4(1784)年風説書まで、そして文政6(1823)年風説書から弘化元(1844)年風説書(オランダ風説書本体にスペイン記事が見られる最後)までという、3つの時期および記事群に大別できる。そこで報告者は1701年までを第1期、1702~84年を第2期、また次にスペイン記事が現れる1823年までの、38年間にわたる沈黙をそれ自体意味のあるものと考え、これを「空白期」という意味での第3期とし、1823~44年を第4期とする。
 第1期は、該当する風説書が61年間に17(記事数22件・以下同)、第2期は83年間に32(36件)、第4期は22年間に13(15件)である。
 1843年から、バタヴィア政庁が作成した「別段風説書」が幕府に提出されるようになった(57年まで)。ここでは11年間に10件記事がみられる。
 これらのうち第1期はハプスブルク・スペイン衰退期、第2期はブルボン朝啓蒙改革の時代、第3期はアンシャン・レジーム解体期、第4期と別段風説書は自由主義改革の時代というように、スペイン国内の時代状況と奇妙なほど同期しているのは興味深い(表2参照)。
●表1、表2 →「201701.pdf」をダウンロード

3.各時代のオランダ風説書におけるスペイン記事の概要
 以下、2に示した時期区分にしたがい、具体的なスペイン記事を見ていくが、時間の都合上、詳細は別紙(一覧表、風説書抜粋)をご覧いただきたい。
i. 第1期(17世紀末まで)
 この時期の冒頭こそ、日本側の禁教政策と一致して対日関係の独占的地位を得る源泉となった反カトリック(反イベリア)戦略が前面に出ているものの、1648年のウェストファリア条約以後は、フランスことにルイ14世の領土拡張策(その中でスペイン領ネーデルラントがオランダにとっての「緩衝地帯」として重要になる)が、スペイン記事においても大きな位置を占めるようになる。もっともカトリック関連の記事も引き続きみられ、中国やフィリピンでの布教、カトリック教徒と結婚したジェームズ2世の即位(実際にはモデナ公女であるマリアを、あえてスペイン王女としているのは興味深い)といった記事がみられる。その他、ポルトガル在住のユダヤ人(?)の活動、バターン島からの漂流民送還、ガレオン船貿易についてふれている。
 ii. 第2期(18世紀末まで)
 この時期はまずスペイン継承戦争に関する記事が、シドッティの来着記事をはさんで冒頭の一群をなしており、個々の戦闘に関する記事も見られる。その後も、オーストリア継承戦争、七年戦争、アメリカ独立戦争といった国際戦争の記事に、スペインが参戦国の一つとして言及される。また(風説書全体に言えることだが)スペイン王家の動向にも一定に行が割かれており、スペインそのものの重視もさることながら、そうした事柄が政治・外交の重要な要素であるという点について、洋の東西を問わず「近世国家」共通の認識をうかがわせ興味深い。その他、スペインの大艦隊がインド洋方面に向かっているというフェイクニュース(!)、リスボン地震、七年戦争にからむイギリスのマニラ占領、オランダ周辺情勢の緊迫という不確定情報、ロシアのシベリア進出を認識せしめたペニョフスキの脱走事件に関する記事がみられる。
 iii. 第3期(空白期)
 この間、ナポレオンの侵攻(1808年)、カディス議会(1811年)、1812年憲法、ラテンアメリカの独立といった、スペインの近世・近代転換期の重大事件が起きている(情報の送り手であるオランダ自身ナポレオンの軍門に下り、日本での地位の維持に腐心していた)。したがってラテンアメリカの独立について風説書には具体的な記述がないにも関わらず、続く第4期のでは独立後のメキシコが既知の地名としてあつかわれている(天保10(1839)年風説書、前年のフランス軍によるベラクルス港占領を伝える記事)。
 iv. 第4期(1820~40年代)、別段風説書(1850~50年代)
 第3期の長く重要な空白期間を経て、第4期にはロシアやイギリスの来航もあって日本側の対外関心は鋭くなっていたものの、スペインへの関心はむしろそれゆえに低下し、この時期は第一次カルリスタ戦争を中心に、主にスペイン国内の不安定な政治情勢が伝えられ、イサベル2世の親政開始で終止符が打たれている。
 「別段風説書」は、1845年度までは主にアヘン戦争とその後の清英関係の推移を伝えていたが、その後は他の世界情勢も伝えられた。うちスペイン関連記事は第二次カルリスタ戦争などの国内情勢、フィリピンの動向といったことが主な内容で、おおむね風説書本体の第4期における方向性を引き継いでいる。

4.オランダ風説書スペイン記事についての小括
 各時代のオランダ風説書におけるスペインの位置付け・注目点、別の言い方をすればスペイン記事が一定の頻度で取り上げられる動機を、2に掲げた時期区分にそってまとめると以下のようになる。
 第1期―「日蘭共通の敵」(前半)→オーストリアと同盟してフランスと対抗する国(後半)(オランダとの関係は是々非々)
 第2期―フランスの同盟国(オランダとの関係は是々非々、フランスとの関係しだい)
 第3期(空白期)―ヨーロッパ全体を巻き込む大事件(フランス革命~ナポレオン戦争)に埋没。オランダ自身が「スペイン情勢どころではない」。
 第4期、別段風説書―国内政情が不安な国
 鎖国開始間もない1648年のウェストファリア条約でスペインからの独立を確保したオランダにとっては、第1期の早い時からすでにスペインは第一義的な脅威ではなく、海外においてはイギリス、近隣においてはフランスに移っていたが、幕府の側にはいまだ「キリシタンの大国スペイン」の残像があるので、自国がスペインの同盟国と受け取られないよう注意がはらわれた。一方で、ジェームズ2世の件のように、オランダこの「残像」を積極的に利用する場合もあったようである。18世紀に入ると、内外情勢の安定もあり、日本側でもキリシタンひいてはスペインへの深刻な脅威感(その裏返しとしての強い関心)は薄れたが、なおヨーロッパ有数の国土の人口をもち、さらに広大な海外領土と海上交通路に君臨するスペインの動向は一定の関心をひいたようである。
 別の視点からするとこうも言える。明治以降の日本人のスペインへの無関心は、その直前の幕末開国時の海外情勢への関心の高まりの中でにわかに定着したものではなく、それ以前からの海外認識の蓄積にさかのぼるものであると思われる。反面、17世紀半ばからのスペインの覇権喪失、各分野での「衰退」という史実を知る我々は、ほぼ同時期の関係断絶にともない、日本側の同国への関心も早々に、一気に低下したと考えがちだが、そういうわけでもなさそうだ。いささか乱暴なまとめ方をすれば、スペインに対する関心は17・18世紀(本報告でいう第1・2期)を通じてゆっくりと冷めていき、19世紀の到来(正確には「短い18世紀」の終わり)とともに、他のより切実な関心に埋没する形で決定的に低下した。この態度は、幕末および明治以降も基本的に踏襲された、と言えそうである。

5.まとめと展望
 「風説書世界システム」?
 2で示した「出来すぎた同時代性」については、E.ウォーラーステインの「近代世界システム(スペインは「半周辺」)」の枠組みを持ち出したい誘惑に駆られるが、こうした便利な枠組みは、その反面判断停止につながりかねないので、慎重な扱いを要する。ここでは、おそらくスペイン記事の消長はオランダ風説書の記事全体の動向と関わっており、さらにそれは幕府の対外関係に関する一般的な関心・認識のあり方と結びついている可能性を指摘するにとどめたい。
 「欧羅巴諸州ならびに印度辺」
 日本(幕府)側の関心ということで1点だけ指摘すれば、風説書成立の経緯からしても、「誰が海上の覇権を制しているか、今後制しうる潜在力を持っているか」が関心の重要な核の一つであったことは想像に難くない。その際キーになる存在は、第1期はオランダ自身、第2期以降はイギリスであろう。そう考えると、既に述べたように風説書にはラテンアメリカ独立に関する記事はないが、第2期までは一定数見られたスペイン記事が、同国が海外領土の大半を手放すのと相前後して消失ないし激減する点は示唆的である。
 また、風説書で海外情勢全般を総括するくだりで多用される「欧羅巴諸州ならびに印度辺」という表現も含蓄が深い。この「インド」という言葉も多義的だが、ここでは、出島に来航したオランダ人が、本国を発ち喜望峰を迂回して以降に通過・停泊した海域、およびそこで情報を得た周辺地域の総体ととれる。幕府当局にしてみれば、西廻り航路による日本へのアクセスは、まさしく日西関係の断絶によって断ち切っているので、あとはこのポルトガル以来の東廻り航路の途上で何が起き、誰がこの航路の支配者としてとってかわりうるかが最大の関心事だったわけである(オランダは当然、それは永続的に自国だと主張する)。
 そのように考えると、スペイン本国より身近なはずのフィリピン、およびその背後のメキシコに関する記事が思いのほか少ないのもうなずける。こうした関心の枠組みは19世紀に入り、太平洋に英米船が頻々と来航することで変化したが(決定的にはペリー来航であろう)、スペインはもはやこの「太平洋インパクト」の主役たりえなかった。
 オランダ風説書と他の史料群―縦軸と横軸
 今後は、今回取り上げたオランダ風説書という縦軸に対し、各時代の地理書など様々な類型の史料をいわば横軸として交錯させながら、風説書のリアルタイムな「情報」と他類型史料の「知識」との相互影響・補完関係、幕府当局者から広く当時の知識・教養層におけるスペイン認識の共有、風説書が示す時代局面が、他類型の史料でのスペイン認識の変遷とどの程度同期しているのか、などといった点をさぐっていきたい。

参考文献

オランダ風説書関連
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鎖国日本の対外認識一般
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荒野・石井・村井編『日本の対外関係5 地球的世界の成立』吉川弘文館、2013年。
荒野・石井・村井編『日本の対外関係6 近世的世界の成熟』吉川弘文館、2010年。
荒野・石井・村井編『日本の対外関係7 近代化する日本』吉川弘文館、2012年。
岩崎奈緒子「世界認識の転換」『岩波講座 日本歴史13 近世4』2015年所収。
開国百年記念文化事業会編『鎖国時代日本人の海外認識』原書房、1978年(初版1953年)
川村博忠「日本近世絵図にみる領域・世界観」『アジアの歴史地理1 領域と移動』朝倉書店、2007年。
宮崎道生『新井白石の洋学と海外知識』吉川弘文館、1973年。
吉野政治「五大州―鎖国時代の世界地理認識」『学術研究年報』(同志社女子大)60、2009年。

関係断絶期のスペイン情報に関するもの
蔵本邦夫「江戸幕末・明治の『ドン・キホーテ』」『サピエンチア』(英知大)22、1988年。
蔵本邦夫「幕末洋学研究と『ドン・キホーテ』―我が国最初の輸入『ドン・キホーテ』本をめぐって」『イスパニア図書』12、2009年。
蔵本邦夫「移入史初期の『ドン・キホーテ』をめぐって」『外国語教育フォーラム』(関西大)12、2013年。
中川清「日本・ラテンアメリカ交流史(Ⅰ)」『白鴎法学』4、1995年。
坂東省次「幕末・明治期のスペイン像」『Problemata mundi』(京都外大)10、2001年。
坂東省次「日本におけるスペイン学の歩み」坂東編『スペイン関係文献目録』行路社、2005年所収。
 坂東省次・椎名浩『日本とスペイン 文化交流の歴史 南蛮・キリシタン時代から現代まで』原書房、2015年(とくに第4章「鎖国時代のスペイン情報」)。
拙稿「オランダ風説書におけるスペイン関連記事」『スペイン学』15、2013年。
拙稿「江戸期地理書におけるスペイン関連記事」『スペイン学』17、2015年。
拙稿「『甲子夜話』における海外関連記事―スペイン・マニラ関連記事を中心に」『スペイン学』18、2016年。

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報告要旨 富田広樹(2015年8月6日)

2015年度夏季研究大会研究要旨(2015年8月6日 久留米大学福岡サテライト)

舞台のうえのネイション
新古典悲劇と集合的アイデンティティ

富田 広樹(北九州市立大学)

 本報告では、十八世紀スペインにおけるネイション意識の生成の問題を演劇作品テクストの分析から検討する意義を提起した。また、同時代の演劇にみられる古典的演劇規則の要請(これによって新古典演劇と呼称される作品群が生まれる)とネイション意識生成の条件との親和性を示した。

 はじめに、スペインにかんしてネイションという問題を扱う困難を確認した。これはスペインという語や、あるいはネイション(ナシオン “nación”)という語彙の単純な使用によってその存在を無批判に措定できないということである。古来(たとえばローマ属領期)より複数に分断されていたイベリア半島内部の諸国は、十五世紀のカトリック両王の婚姻を以て統一されたわけではなく、以後も同一の君主を頂く同君連合、連合王国として存在した(十六、十七世紀の作家たちは「スペイン」に言及するに際して複数形の「王国」 “reinos”という言葉を用いている)。これらがひとつの「スペイン」にまとめ上げられていく過程にあって、なんらかの社会的変容が認められたと考えられるのである。鋭敏な批評意識を持つ歴史家の多くがスペインにおけるネイションの問題を、またその萌芽を十八世紀に求めている。いっぽうでこれら歴史家に共通する問題点は、ネイションの概念を精緻に定義することがなかったことにある。

 つづいて、ネイションをめぐって社会学の領域で今日までに提起されている議論の主要なものを概観した。これらはネイションが近代社会に特徴的な共同体であると認識したうえで、その生成の機序を説明しようと試みるものであった。個々に妥当と思われる点を有してはいるが、包括的な決定力に欠ける面は否定できない。そこで道具主義的な説明を一旦はなれて、ネイションを言説編成と捉える立場から、言説の分析を通じてネイションの問題に接近する方策を採ることとした。すなわち、ネイションありきではなく、ネイションを生み出す語りを明らかにすることを目的としたのである。ウムト・ウズキリムリの研究によれば(ただしこれはクレイグ・カルフーンの提案をよりコンパクトにしたものともいえる)、ネイションをめぐってアイデンティティ、時間、空間にまつわる言説が形成される。これらを作品テクストから丁寧に取り上げていくことで、そこに見られる戦略を明らかにすることが出来る。

 演劇という芸術は表象(“representación”、「上演」の意味もある)を契機とすることで可能となる。それに可能な限りの真実らしさを付与すること、あるいは不自然さを取り除くことが古典的演劇規則の眼目である。これらは俗に三一致の法則(ただしアリストテレスは場所の一致について言及を行っていない)として知られる原則と付随する細かなルールによって規定される。十八世紀スペインにおける代表的な論客はイグナシオ・デ・ルサンであり、その『詩学』(1737)の登場をスペインにおける新古典演劇の分水嶺と捉えることはできる。しかし真の画期は、エスキラーチェの暴動(1766)の後カスティーリャ議会の長の地位に就いたアランダ伯爵が演劇という芸術に公的な支援を与えるようになったことにある。支援の理由は演劇のもつ教育的機能が大いに評価されたことにある。こうして「アランダの演劇」とも称される作品群が世にあらわれ、その多くが上演の機会を持った。これらのテクストを考察することから、ネイションをめぐる言説がどのように展開されているか、そしてその規定となる言説編成のありかたやその戦略を炙り出す必要がある。

 新古典悲劇のネイション意識の生成における寄与とは、その芸術の形式的要請とネイションにまつわる言説のあいだの相関性をみることで判然となろう。新古典演劇における筋、時間、空間の一致がアイデンティティ、歴史的永続、地理的境界をめぐる言説を構成することによって集合のモデルを供給する。利用可能なもの、都合のよいディテールは極限まで使用される一方で(つまり内容の真偽は問われない)、不都合な出来事は捨象される。そうして織り上げられた言説が閉鎖された空間である劇場の中で、同時に数多くの観客にモデルとして提示される。三一致の法則を遵守した新古典演劇は、ネイションという言説編成を強化しまた普及させるための卓越したメディアとして機能したと考えられるのである。

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報告要旨 椎名浩(2015年8月6日)

2015年度夏季研究大会報告要旨(2015年8月6日 久留米大学福岡サテライト)
座談会「自著・訳書を語る」
『日本とスペイン 文化交流の歴史
             
―南蛮・キリシタン時代から現代まで』(原書房、2015年)
                                              椎名 浩

浅学を顧みず、日西関係の通史を世に問うことになった。報告者自身、本来のスペイン中・近世史から日西関係史に関心を広げた当初からこのような類書の刊行を望んでおり、結局「他の方が書かれないのなら…」とばかりに自ら筆をとった次第である。
すでに2010年には、全28章からなる論集『日本・スペイン交流史』(坂東省次、川成洋編 れんが書房新社)が出ていて、この分野の主要テーマ、エピソードが現在の研究水準に照らして整理されていたので、共著者の坂東省次氏からお誘いを受けた際には、正直、結構軽い気持ちでお引き受けしたと記憶している。
もちろん2010年の『交流史』という基礎がなければ、今回の通史は実現できなかった。しかし『交流史』はあくまで通史的に配列された「論集」であり、これを単純に要約して通史が完成するものでもない。たとえば『交流史』では、天正・慶長の両遣欧使節、サンフェリペ号事件から26聖人殉教事件など、日西交流史上重要だが周知の出来事のいくつかが、独立したテーマ(章・節)としてはとりあげられていない。
一方で、「通史」は教科書的な概説や年表とも異なり、関連する大小の出来事を年代順に配列すればよい、というものでもない。16世紀~現代までの両国の関係史にどのような特徴があるか、あるいはそれはどのように書かれるべきかについて、なんらかの見通しを持つ必要がある(言いかえれば、あれほど多くの先達先学をもってしても、何故に類書が書かれなかったのか、書き得なかったかということである)。
以下、報告者が本書の第1部(戦国時代~幕末)を執筆するにあたって、この問題について自分なりに考えたところを述べさせていただく。

近世初期の日欧関係史は、第1部のサブタイトルともなっている「南蛮・キリシタンの時代」という表現が象徴しているように、貿易と布教、これに加えて当局者間の外交、使節の往来が関心の中心となってきた。スペイン関係ではフィリピンとの朱印船貿易、托鉢修道会の布教、マニラ総督府との通交・使節往来、ビベロ、ビスカイノの来航、慶長遣欧使節といったところが主要な出来事であり、使節出港400周年にあたる2013年が「日本・スペイン交流年」とされたのは象徴的である。対して、マラッカ・マカオとの南蛮貿易、イエズス会の布教、天正遣欧使節等はこの範疇の外―日西関係史本格化以前、ないしは日葡関係史上のエピソードとしてとらえられる。1624年の日西断交以降、38年ないし41年の鎖国完成に至る過程も同様である。
そこには、スペイン船ないし宣教師なりが実際に来航した事実が重視されると同時に、この時代日本とかかわったヨーロッパの「国」を、領域と主権において、近代に確立されたものの対応物を当時に見出そうとする傾向が見いだせる―本書でいえば「ポルトガルと明確に区別されたスペイン、スペインと区別されたポルトガル」―。
本書の執筆にあたっては、報告者はこの枠組みを相対化し、スペインの日本とのかかわりをより「広く」「長く」とらえる事をめざした。
 たとえば第1章は、通常は「日欧関係史」一般ないし「日葡関係史」の開始年とされる1543年、種子島への来航から筆を起こしている。これと相前後する形でスペインのビリャロボス艦隊が出ており、永続的な拠点は築かないものの、コロンブス以来の「西廻り」航路が、ポルトガルの「東廻り」航路の東端を繰り返しうかがうという状況のさなかにヨーロッパ人の日本「発見」も実現したのである。それは序章において、15世紀を通じた両国の大西洋を舞台とした競合へ、さらには、12世紀ルネサンスの中アラブ・イスラム経由でヨーロッパにもたらされたアジア情報、そのプラットホームとしてのイスラム・スペインというところまでさかのぼる。むろんそうなってくると、もはや「日本とスペイン」というより「アジア海域とイベリア半島」という話になってくるが。

これとならんで、通常「スペイン」とよばれる国家そのものの複合性、ないし近代との異質性も随所で強調した。15世紀末まで、ポルトガルをふくめた複数の王国が並立したイベリア半島のうち、カスティーリャ王国を中核としながら、カスティーリャ・アラゴン両王家領のネットワークがヨーロッパ大に広がり、アメリカさらにはフィリピンにまで拡大したのである。
さらに興味深いのはこれと言語の関係で、イタリア半島出身のヴァリニャーノもスペイン語(カスティーリャ語)で『日本諸事要録』を書いているなど、「スペイン語による日本情報の伝播」という観点からは、近代の国家枠組みを超えた広がりがある。

この時代の日欧関係史の主導権を争ったポルトガルは1580~1640年までスペイン王権化にあり、他方オランダはこれと入れ替わるようにスペイン王権下から独立を目指す。そうでなくてもこの時期のスペインはヨーロッパ政局のハブ的存在であり、序章からの流れも合わせると、日西関係史を書くことは、とりもなおさず全西ヨーロッパ中・近世×日本あるいは東アジア世界を描くことにつながる、といっては、スペイン中心史観にすぎるであろうか(!)。明治以来の「日欧交渉史」という枠組みと、結果的な着地点は近くなるかもしれない。

この分野に題名をうつにあたっては「関係史」「交流史(本書および2010年の論集名に採用)」「交渉史」あるいは「通交史」といった表現があり、第1部については「キリシタン史」などの呼称もある。自分自身についていえば、本書も含めたこの分野の仕事については、「同時代史」という表現が一番しっくりくる気がする。本書では随所で、「16,17世紀の社会に生きた人々」がやってきた、という視点を強調した。

また同時代性と言うことでいえば、両国は「大航海時代」という歴史的な場を共有していたことは容易に想像できるが、複数の王国の複合体とか、王家や領主の財産としての要素といった「近世的」な国家観も、文化的背景や世界観を全く異にしながらも、近代国家に慣れ親しんだわれわれが理解に苦慮するよりは、より直感的に理解、ないし自らとの共通性において咀嚼していた印象を受ける。第1部であつかった時代、16世紀から幕末まで、両国民の世界観は、互いに「ずれながら噛み合っていた」というのが執筆後の印象である。

 ちなみに第2部の時代では、両国は「大航海時代」ほどの同時代性は希薄であるように思える。しかし、現代までの通史を書きあげてみると、一見縁遠いように見える近現代の両国にも随所で「同時代性」が貫徹していたことに気づく。
一例をあげると、7章の冒頭部分で触れられているように、旧枢軸国の日本、およびこれに近い国内体制であったスペインは、ともに冷戦最盛期にそれぞれ国連スペイン非難決議の撤回(1950年)とサンフランシスコ講和条約(52年)を実現し、その後スターリン没(53年)後の冷戦の一時的な緩和という二段構えの動きの中で国連復帰(スペイン1955年、日本56年)を果たしている。

つづいて、今回本書で取り上げられなかったが、日西関係史を考える上で重要と思われるいくつかの視点を挙げてみたい。

まず、様々な民族的・宗教的マイノリティの存在に着目しつつ、彼らの人的ネットワークの総体として「大航海時代」をとらえるという発想である。来日イエズス会士の中に多くの「新キリスト教徒」を見いだせること、スペインからポルトガルを経てオランダに渡ったコンベルソが、ある者は再びユダヤ人に戻りながら、オランダがポルトガルから一時的に奪い取ったブラジルで一定の役割を果たしたことが知られているし、日本人も各地で日本町を作った先では一種のマイノリティ(周囲から区別されるエスニック集団)であり、日本人キリシタンも(とくに国内で禁教が進むと)、アジア海域に広がるマイノリティ・ネットワークを形成した―いわば「キリシタン・ディアスポラ」とでもいうべき現象―といえる。と同時に彼らは、マカオ、マニラなどカトリックが支配文化に位置する空間では「多数派」に通じる集団であるなど、状況は多面的である。
今回はこの要素を全体的叙述の中に組み込むことは困難だと感じ、あえて捨象した。おそらく全体的状況をふまえつつ、それ自体を中心テーマに据えてあらためて論じるべき要素であろう。

 つぎに、これは第4章の結びで触れたことであるが、17世紀末から18世紀を通じて19世紀前半あたりのスペインにおける日本情報、および関心のありかたである。18世紀後半のオヤングレンの日本文典の序文で、日本語を含む日本のリアルタイム情報が得ていないと吐露されているが、啓蒙期スペインの文化面についての研究が進展すれば、この時代の海外知識・情報・関心のありかた、そのなかで自領フィリピンや日本を含むアジア情報についても解明・紹介が期待される。

またこれは第2部の内容にかかわる事であるが、近現代の日西関係に果たしたカトリック教会の役割である。実際の関係というより、むしろ日本への関心においてというべきか。世俗権力(国家)の低い関心と、教会の側での、かつてほどの熱気はないものの一定程度の関心という対象は、ある意味第1部の時代から引き続いての日西関係の基調と言えるかもしれない。
重要な契機としては、まず1862年に日本26聖人の列聖が行われるが、この時期は幕末日本の開国によって布教再開の機運が高まっていたと同時に、教皇庁のおひざ元イタリアのリソルジメントが進展し(前年の61年にイタリア王国成立)、近代国家との関係において教皇庁が重大な局面にいたっていたころでもあった。
次に1898年のフィリピンの喪失であり、相前後して台湾、ついで日本本土へのドミニコ会、フランシスコ会宣教が本格化した。さらに内戦~太平洋戦争に至る時代が続くだろう。
近現代のスペインにおけるカトリック教会の役割については日本でも研究者の層は厚く、スペイン国内において、教会関係者の間で日本についてどのような発言や議論がなされていたか、今後解明が期待される。

ついで本書の刊行を踏まえて、この分野の今後の展開として望むことをのべたい。

まずは手前みそながらせっかく本書が出たので、まずはこれに対する補足や批判といった作業が蓄積されることを希望する。その意味では、本書が批判的分析を含む書評・紹介の対象として、なるべく多くの方に、多くの学術雑誌で取り上げられることが望ましい(本書のPRの意味でも!)。並行して、本書の内容を修正・補完する多くの個別研究が待たれるのは言うまでもない。

また論集・通史と三角をなす史料集の刊行も望まれる。ただ近世初期の最初の交渉の時代については、『大日本史料』『大航海時代叢書』『イエズス会報告集』などが出ているし、またそこから「日西関係」の情報だけを抽出するより、収録元の各史料の文脈において理解するほうが、より建設的と考える。
これに対し、『近現代日本・スペイン関係史料集』であれば、ジャンルそのものが発達の途上にあるし有意義だろう。その際、本書の第4章であつかった江戸時代断交期のスペイン関連記事も、これまであまり強い関心をひいてこなかったゆえに収録の意義がある。序論として、1624年の断交前後の諸記録を収録してもよかろう―「両国関係史料集」が「断交」から始まるという構成はやや奇妙ではあるが―。日本語の「近現代」からはやや違和感があるが、スペイン語のEdad Moderna, Edad Contemporáneaがしめす範囲からすれば、さほど無理はない。終章は2013-14年の日西交流年の諸記録といったところか。

以上のような作業の蓄積をもとに、遠くない将来、別の新たな関係通史が書かれることを望む(とくにスペイン人がスペイン語で書いたもの)。だがその際、主語は引き続き「日本とスペイン」であり続けるだろうか?昨今のカタルーニャ情勢の推移はおくとしても、今一度類書を書くとすれば、ポルトガルも含めたイベリア、あるいはラテンアメリカもふくめたスペイン語世界を対象にするという方向性はありうるし、そのほうが時代の実情にも合うように思われる(とくに報告者が今回執筆を担当して時代については)。あるいは全ヨーロッパと日本の関係通史というような共同作業も有意義だろう。
一方。「日本」という枠組みはそのままでよいのか?東アジア、あるいは東南アジアも含めた海域アジアというような枠組みが、より適切なのかもしれない。

「二国間関係史」という(事実・記述両面での)枠組みも、おそらくは「国民国家」ないし「近代主権国家」を背景にし、それ自体歴史的存在(始まりと終わりのある存在)であるのだろう。歴史の重大な転換期にあたり、現在また未来をみすえて両国関係史の全体像を構想するとき、それがあたかも、中世盛期のヨーロッパで東アジアの具体的情報への関心が芽生えた時代に回帰したような外観を呈するというのは、この間の通史を執筆した者としては感慨を禁じ得ないところである。

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報告要旨 阿部 俊大 (2013年9月2日)

2013年度報告要旨(2013年9月2日 山口県川棚温泉 旅館「小天狗」)

 「12世紀アラゴン連合王国におけるムデハルの社会的状況」

                                      阿部 俊大

ムデハルとは、キリスト教諸国とイスラーム諸国の闘争、いわゆる「レコンキスタ」が展開されていた中世のイベリア半島において、キリスト教徒の政治的支配下に置かれたイスラーム教徒住民のことである。

彼らの状況は地域によって多様であり、カスティーリャ王国では多くが早期にグラナダ王国やアフリカに逃亡し、残留者もイスラーム勢力圏から離れた北部地域に分断して配置されるなど、比較的厳しい状況に置かれたのに対し、アラゴン連合王国では近世初期に至るまで、集団・共同体としてムデハル住民が存続し続けていた。双方の事例の比較考察、またキリスト教徒がイスラーム教徒住民を支配下に置いた他の地域、シチリア王国や十字軍諸国家、イタリア人居留地などの地域との比較考察を行うことで、地中海地域における異文化間交流の歴史的展開およびその特徴について、より深い認識を得ることが出来ると考えられる。

本報告では、その手始めとして、アラゴン連合王国においてムデハル住民、ムデハル共同体の存続が可能となった背景を、同王国の中核地域であるバルセロナ伯領(現在のカタルーニャ地方)を対象として分析することを図った。この地域に関しては、従来、ムデハル住民はキリスト教側に降伏した際もほとんど排除されることがなく、平和裏に居住し続けていたと考えられていたが、近年、キリスト教徒によるイスラーム教徒の積極的な排除が存在したと唱えるビルジリらの説も現れてきている。

本報告では、バルセロナ伯領内で最もムデハル人口が集中し、かつキリスト教の教会領主も成長するなど、両勢力の接触がもっとも顕在的に観察できる地域であった都市トゥルトーザ周辺部を取り上げ、12世紀半ばのキリスト教徒による征服後約半世紀を対象に、当該地域のムデハルの境遇が実際にどのように変容していったのか、キリスト教側の社会状況の変化と関連付けつつ分析を試みた。

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