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報告要旨 佐藤智美(2009年8月17日)

第2回研修合宿報告要旨(2009年8月17日 別府大学)

野上弥生子『スペイン日記』に見られるスペイン内戦へのまなざし


                                  佐藤 智美

1.作家野上弥生子と『スペイン日記』について
 野上弥生子は、1885年 現臼杵市の酒造業を営む小手川角三郎、母マサの長女として生まれた。
 1900年臼杵尋常小学校を卒業後上京して、巌本善治が校長を務める明治女学校に入学し、1906年 同女学校高等科を卒業すると、同郷の帝大生野上豊一郎と結婚した。
 1907年夫豊一郎を通して、夏目漱石より、第一作『明暗』について詳細な批評の手紙をもらい、その中の「ただ漫然と年を重ねるのではなく、文学者として年を重ねよ」の言葉に奮起し、二作目の『縁』が漱石の推薦により、「ホトトギス」に掲載され、作家としてデビューする。
 大正期、平塚らいてうの主宰した「青鞜」にいったん加入するもすぐに脱退するが、寄稿者として、伊藤野枝をはじめとする青鞜関係者と知己となり、一方では宮本百合子とも親交をむすぶ。その他、豊一郎を通して彼の親友の岩波茂雄、安倍能成、さらに北軽井沢の大学村の居住者となってからは、法政大学関係者や岩波文化人と呼ばれる人々と親交を深めた。
 彼女の生活感覚や気質は、商家であった生家や故郷臼杵のもつ気風に大きく因ると思われるが、彼女の人格・思想形成には上記の上京以降の人間関係が、大きく影響を与えたとみることができよう。
 家庭的には、三人の男児に恵まれ、教育熱心な母親でもあった。子どもの成長を『新しき命』『小さい兄弟』『母親の通信』等の小説に著す一方、児童文学の翻訳、創作にも励んだ。
 作風は、明治末から大正期の家族、故郷、子ども等の身辺を題材にした写生文から、『海神丸』をへて、やがて、昭和戦前期に入ると、『真知子』『若い息子』『黒い行列』等の社会性の強い、同伴者文学と称される文学を手掛けた。言論統制下の戦時中は、雑文等を書いてすごし、ペンの自由を取り戻した戦後は、『黒い行列』を全面的に改定し、続編を第六部まで書きあげ『迷路』として、1956年(S.31)71歳の時に発表した。そのあと、1962年78歳で『秀吉と利休』の連載を開始し翌年9月完了。86歳の時に自叙伝風の小説『森』(明治女学校時代のこと)の連載を始め、1985年3月30日、100歳の誕生日を1か月後にひかえて亡くなるまでに第15章まで発表して、未完となった。
  『欧米の旅』は、1938(S.13)10月1日から、1939(S.14)11月18日まで野上豊一郎が、能楽を中心とした日本文化をイギリス等で講演するために、外務省文化学業部からヨーロッパに派遣されることになり、弥生子も同行した際の紀行文をまとめたものである。旅行中の1939年(S.14)に婦人公論、朝日新聞にも寄稿、帰国後の1940~41年(S.15~16年)、婦人公論をはじめ各紙に発表。初出の『スペイン日記』は1941年「改造」11月号に発表された。
 欧米の旅に出発する前年1937年、2.26事件、日独伊防共協定の成立など、1929年(S.4)におこった世界恐慌をファシズムで収拾しようとする動きの中で、弥生子は、社会運動に関係して検挙され転向した若者を主人公とした『黒い行列』(のち、まとまって『迷路』となる)の発表を続けていた。 しかし、盧溝橋事件が勃発して日中は全面戦争となり、思想言論の統制はさらに厳しくなった。翌年には、国家総動員法が制定され、友人宮本百合子、中野重治などの作家が内務省警備局から作品発表を禁止された。弥生子は黒い行列の続編を構想し、原稿も書いてみてはいたが、随筆・感想を発表するよりほかなかった。そして胸中では、豊一郎の渡米への同行を望みながらも、経済的算段をしかねていたところ、1938年(S.13)8月北軽井沢の山荘にいた弥生子のもとに岩波茂雄が来て「『一万円くらいの金ならどうにかするから父さんと同行せよ』と言ってくれた。私は感動して涙が出た。誰ならこんな親切な申し出をしてくれるであろう」(1938年8/6日記)と彼女の同行が決まった。続編中断の理由が出来、欧米の旅は彼女には好機であった。
 さらにスペイン旅行については、野上夫妻は当初、その予定はなかった。ところが、行きの船の食事の席が、スペイン公使の矢野真氏と一緒になったことから、彼の強い勧めがあって、当地を訪問することになった。当時、スペインは5ケ月前に内戦が終了したところであり、野上夫妻は、案内に熱心な矢野公使のもとで、いくつもの内戦跡を見てまわることとなった。
 
2. 弥生子の「スペイン内戦」へのまなざし―共感と冷ややかさ―
 野上夫妻は矢野公使の用意した公用車で8月16日にフランスから、スペイン入りし、日本公使館のあるサン・セバスティアンに滞在した。ここから、第一次世界大戦勃発の危機がせまり、再びフランスにもどる同月31日までオニャーテ、デュランゴオ、ビルバオ、ゲルニカ、ブルゴス、トレド、マドリード等の街の内戦跡を「弥生子らが見ようとする以上に見せたい」矢野公使の熱心な案内で見学した。その合間には闘牛やオペラ見物にも出かけた。
 このスペイン滞在を通して、彼女は、スペイン内戦に対してどのようなまなざしをそそいだであろうか?
 ただし、この『スペイン日記』の初出は1941年であり、恐らく彼女はスペイン滞在中のメモ(彼女の『日記』に残されている)をもとに、帰国後得た知識や情報も入れて執筆したと思われる。また、旅の案内役であった矢野公使がフランコ政権を認めた日本政府の役人であったこと、発表当時の日本が厳しい言論統制下にあったことも、彼女の見かた・書き方に当然、枠をはめただろうことは考慮しなければならない。
 まず、サン・セバスティアンで、軍事博物館を見学した弥生子たちは、入口のポスターに、赤軍(共和国軍)の兵士が大きく赤鬼風に描かれ、彼らの爆弾で破壊されたと称する教会の聖母や、クリストや使徒たちの像が祭壇の破片とともに一隅に並べられているのを見た。「今度の騒動は、国内の白軍(反乱軍)と赤軍をめぐっての独伊と英仏露の争闘であり、それはまたスペインを彼らの武器の試験場にしたのだから誰が何をぶっこわしたか知れたものではない(『欧米の旅下』岩波書店 P.296)」と記述し、この内戦の本質を見ようとしている。帰国後に得た知識も加わっての記述だと考えられるが、おおむね的を得ているものの、英仏は、実際は不干渉主義をとったために、独伊と肩をならべるほどの介入をしたわけではない。
 また、同じ国内で敵味方に別れて争う内戦のむごさについて、「スペイン人同士のことで、赤軍の勢力地域の男たちは赤軍の兵士として、白軍の占領地帯の者は白軍の兵士として戦っているのが一般の実情であったから、肉親や血縁で敵味方になっているのも珍しくなく、おい俺だぞ、気をつけろとか兄さん、僕ですよとか両方から呼びあったと伝えられる(前掲書P.310)」と、内戦にまきこまれ、思想信条とは別に敵味方になって戦わざるを得なかった民衆の悲劇を描き出しながら、「『味方(ノソトロス)』とか『彼(エロス)』とか書かれてある。説明までもなく、彼我の陣地を示すのであるが、なんとも驚かれるのは、双方の距離が数間と隔たっていないばかりか、「味方」の後ろに「彼」があり、その後にはまた「味方」が迫り、それに「彼」が続きながら、くねくねと巴形に入り乱れていることであった(前掲書P.356)」と内戦の戦いの厳しさにも触れている。
 さらに、軍事博物館に、白軍の方の沈没した軍艦にあった日本の女学生たちが送った手紙が陳列されているのを見た弥生子は、「外国の見も知らぬ兵士に対して若い娘たちにこんなことをさせるのは私は嫌ひだからでもあろう、絵封筒にくねくね書いた日本文字が懐かしいより変に不快であった(前掲書P.296)」と述べている。これは 日本政府が同盟を結んだフランコ政権に対して、在日スペイン大使館のもとめに応じて、各所で女学生に行政の肝いりで激励の手紙を書かせた(狩野美智子『野上弥生子とその時代』P.158~159)のであるが、言論統制下、よく批判できたと言える。また、赤軍に武器や物資を供給した英仏その他の夥しい船が、彩色入りでグラフ風に描かれているが、独伊の方は示していないことも見逃してはいない。
 しかし、彼女は、民衆の多い、赤軍にも一定の共感を示しながらも、彼らの側に身をおいてしまっているわけでもない。
 たとえば、同じく軍事資料館で、説明役の若い将校から、モロッコ沖の海戦で白軍のために殊勲をたてた二隻の軍艦について聞いた。「海軍は数十隻の艦艇をあげて赤軍に加担したが、結局、白軍であった二隻に爆破されたのは、勢いをえた水兵が、艦長をはじめ高級士官を射殺して海に投げ込んでしまって指揮官がなかったためだ(前掲書P.296)」と聞き、「これは味ふべき話ではあるまいか」と述べている。「味ふべき」の意味するものは何か? 指揮官のいない水兵のみの集団、つまり知識や能力に乏しい民衆のみの集団の治世の限界を説こうとしているように思われる。
 また、「ミケランジェロが作った二尺ほどの十字架をこの部屋で見るのも騒ぎのお蔭である。この間イタリアのチアノがフランコ軍の成功を祝するためにスペインを訪ねた時、ムッソリーニからの贈り物として持ってきたのだから。」(前掲書P.353)と内戦で流れた血とは関わりなく、文化的恩恵を躊躇なく受けようとしている姿勢も見られる。また、内戦を「騒ぎ」と表現しているのも気になるところである。
 スペイン内戦はファシズム国家の介入により、内戦が単なる内戦として終わらなかったものと解釈できるが、弥生子は、その他の部分でもスペイン内戦について、「スペインの間断ない革命さわぎ」(前掲書P.329)「スペイン人同士の内輪喧嘩(前掲書P.350)」、「内乱好きなスペイン人(前掲書P.357)」といった表現をしている。こうした表現に対して、当日のもう一人のパネリスト、スペイン現代史家の塩見千加子氏から、「数十万人の犠牲者を出したスペイン内戦は、たんなる内輪もめにしかすぎないのか」という疑問が出され、内戦での共和国軍と反乱軍とのしこりまたは共和国軍側についた民衆への冷遇は内戦後も長く続いたことに言及され、その表現への疑問が出された。また、共和国軍=赤軍、反乱軍=白軍という命名のしかたも、スペイン内戦に関しては、これまで他にこうした命名の例を目にしたことがないと述べられた。ロシア革命になぞらえた表現かと思われるが、スペイン内戦に至るまでの経緯をみると、弥生子の命名が必ずしも妥当だとは言い難い面がある。
 このように、社会運動に挫折、転向した若者群像を主人公とした『黒い行列』を発表し中断したまま、欧米へ旅立った弥生子の、ファシズム勢力対反ファシズム勢力の戦いであるスペイン内戦へのまなざしは、「赤軍派」(民衆派)にいくらかの共感を示しながらも、絶対的に彼らの側に身を置くものでもない。
 それは、先に述べたように、当時の日本が言論統制下にあり、日本政府がフランコ政権を認証していること等の、言論の制約上の問題が第一義的にはあるといわざるをえないであろう。
 それに加えて言及するならば、弥生子が同伴者作家と言われる位置にいる作家であることにも大きく関わっている。彼女は社会運動、民衆運動に一定の理解をもちながら、決してその側に身を住んでいる人間ではない。弥生子が信頼し敬意を表した宮本百合子は、弥生子について「急速な思想的動揺、歴史の転廻の時代、あなたはいつも其等の新興力に接触を保ち、作家として其等に無反応であるまいとする敏感性を示されましたが、しかしそれは常に間隔をおいてのことでした」(S.11年11月「含蓄ある歳月」)と述べた。
そうした、「常に間隔をおいて」関わる彼女の姿勢や思想性もまた、スペイン内戦へのまなざしにも出ていることも確かであると思われる。

<参考文献>
・野上弥生子全集第Ⅰ期 第17巻『欧米の旅 下』 (岩波書店)
・野上弥生子全集第Ⅱ期 第6巻 『日記』6  (岩波書店)
・野上弥生子全集第Ⅱ期 第7巻 『日記』7  (岩波書店)
・狩野美智子『野上弥生子とその時代』(ゆまに書房)
・竹西寛子 「『伝説の時代』のこと」(高原文庫N0.10 軽井沢高原文庫)

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